【3話】王太子からの突然の提案
「君との婚約について、父上と話し合おうと思っている」
アルベルト殿下の口から放たれた言葉に、私は一瞬、思考が停止した。
…………。
え?
今、何て?
婚約について話し合う?
それって、つまり……。
「婚約を解消するということでしょうか?」
私はできる限り冷静な声で尋ねた。
内心では、盛大に頭を抱えていた。
早い。
早すぎる。
まだ学園に入学したばかりなのに、もう婚約破棄の話が出てくるなんて聞いていない。
いや、むしろ好都合なのでは?
婚約を解消できれば、破滅ルートから大きく遠ざかる。
そうよ。
これは絶好の機会だわ!
「……君は、それで構わないのか?」
「え?」
アルベルトの質問に、私は顔を上げた。
彼は私の表情をじっと見つめている。
「王太子妃になることは、君にとって決して簡単なことではない。これまでの君の振る舞いについても、王宮には良くない噂が届いている」
…………。
ああ。
そういうことか。
どうやら、王宮でも私の評判はよろしくないらしい。
まあ、当然といえば当然だ。
以前のエリザベートは、かなり高圧的な性格だったようだし。
「それに、君自身が本当にこの婚約を望んでいるのか、私は疑問に思っている」
アルベルトは静かに続けた。
「君はいつも、私の隣に立つことを当然のように受け入れていた。だが、それが君自身の望みなのかは分からない」
…………。
なるほど。
この人、意外とちゃんと考えているのね。
ゲームでは、ヒロインに惹かれていく王太子という印象が強かった。
でも、実際に話してみると、思っていたよりも冷静で、相手のことをよく見ている。
「殿下」
私はゆっくりと口を開いた。
「私は、少し考える時間が欲しいですわ」
「考える時間?」
「ええ。私自身が何を望んでいるのか、改めて考えたいのです」
本当は今すぐ婚約を解消してもらいたい。
しかし、ここで勢いよく了承するのも不自然だろう。
それに、婚約解消が本当に破滅回避につながるのかも分からない。
何より、私はまだこの世界のことを十分に理解していない。
「分かった。急かすつもりはない」
アルベルトは小さく頷いた。
「ただ、一つ覚えておいてほしい」
「何でしょう?」
「私は、君が変わろうとしていることに気づいている」
その言葉に、私は少し驚いた。
「以前の君なら、私の提案を聞いた瞬間に怒っていたはずだ」
「……そうでしたか」
「だからこそ、少し驚いている」
アルベルトはそう言って、わずかに表情を緩めた。
「今の君がどんな人間なのか、もう少し見てみたいと思っている」
…………。
待って。
それって、どういう意味?
まさか、婚約を解消するどころか、興味を持たれている?
いやいやいや!
それは困る!
私の目標は破滅回避なの!
王太子に好かれることじゃないのよ!
「そうですか。ありがとうございます」
私は何とか笑顔を作った。
「では、私はこれで失礼する」
「ごきげんよう、殿下」
アルベルトは軽く手を振り、その場を去っていった。
私は彼の背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
「……危なかった」
どうやら、婚約解消への道は簡単ではなさそうだ。
◇
屋敷へ戻った私は、自室のソファに腰を下ろしていた。
「お疲れのようですね、お嬢様」
マリアが紅茶を用意してくれる。
「ありがとう。少し考え事をしていたの」
「殿下とのお話ですか?」
「ええ」
私はカップを手に取り、一口だけ紅茶を飲んだ。
……美味しい。
さすが公爵家。
紅茶一杯で前世の喫茶店とは比べものにならない。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
私はカップを置いた。
「マリア」
「はい」
「私の評判について、教えてもらえないかしら」
「評判、でございますか?」
「ええ。学園や社交界で、私はどのように思われているの?」
マリアは少し困ったような表情を浮かべた。
「……率直に申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ」
「お嬢様は、非常に美しく、教養もあり、誰もが羨むようなご令嬢です」
「そう」
「ですが……少々、近寄りがたいと思われております」
…………。
まあ、そうでしょうね。
「特に、身分の低い方々には厳しい態度を取られることが多かったため、恐れられている部分もございます」
「そう……」
私は窓の外へ視線を向けた。
やっぱり、簡単にはいかない。
いくら中身が変わったところで、周囲の人間がそれをすぐに信じてくれるわけではない。
むしろ、今までの行いがあるからこそ、疑われて当然なのだ。
「マリア」
「はい」
「私、これから少しずつ変わっていきたいと思うの」
「……お嬢様」
「今までの自分がどうだったのか、きちんと向き合いたい。そして、誰からも恐れられるような人間にはなりたくないわ」
マリアはしばらく私を見つめていた。
やがて、穏やかな笑顔を浮かべる。
「私は、今のお嬢様を応援しております」
「ありがとう」
その言葉が、今の私には何よりも嬉しかった。
◇
翌朝。
私はいつもより早く目を覚ました。
今日から、少しずつ行動を変えていく。
まずは学園での生活を見直すこと。
そして、できればリリアとも良好な関係を築きたい。
「よし!」
私は鏡の前で小さく気合いを入れた。
今日こそは、誰か一人とでも仲良くなってみせる。
そう決意して朝食を済ませ、学園へ向かった。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まっていた。
私が姿を現した瞬間、会話がぴたりと止まる。
「…………」
あれ?
何かしら、この空気。
まさか、私が来たから?
「ご、ごきげんよう」
私はできる限り柔らかい声で挨拶をした。
しかし、返ってきたのは小さな会釈だけだった。
……うん。
予想通り。
そう簡単にはいかないわよね。
私は自分の席へ向かった。
その途中、一人の少女が床に落とした本を拾おうとしているのが目に入った。
周囲には何人かの生徒がいたが、誰も手を貸そうとはしていない。
私は足を止めた。
これは……。
チャンスなのでは?
困っている人を助ける。
とても良いことだ。
しかも、悪役令嬢のイメージを変えることにもつながる。
私は自然な動作で本を拾い上げた。
「こちら、落とされましたわよ」
「えっ?」
少女は驚いたように顔を上げた。
「ありがとうございます……!」
「気にしないでくださいな」
私は本を手渡し、微笑んだ。
よし。
完璧。
これで少しは印象が良くなったはず。
……と思ったのだが。
「えっと……エリザベート様?」
「何かしら?」
「あの、本当にありがとうございます。ですが……」
少女は困惑したように周囲を見渡した。
「どうして私に?」
…………。
どうしてって。
本を拾っただけなんですけど!?
私は笑顔を崩さないように、必死に耐えた。
「困っている方を見かけたら、助けるのは当然ですわ」
「そ、そうですよね……」
少女は何度も頷いた。
その様子を見て、私は少しだけ不安になった。
どうやら、私が普通のことをするだけでも、周囲には驚かれてしまうらしい。
……これは、なかなか骨が折れそうね。
けれど、焦る必要はない。
一つずつ、変えていけばいい。
そう思った瞬間。
教室の扉が開いた。
「おはようございます、皆さん」
入ってきたのは、桃色の髪をした少女。
リリア・フローラだった。
彼女は教室を見渡し、私の姿を見つける。
そして、一瞬だけ目を見開いた。
「エリザベート様……」
「ごきげんよう、リリアさん」
私は微笑んだ。
彼女は少し戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「おはようございます」
その反応に、私は少しだけ嬉しくなった。
昨日よりは、ほんの少しだけ距離が縮まった気がする。
……気のせいかもしれないけれど。
しかし、その直後。
リリアの隣にいた女子生徒が、私に向かって口を開いた。
「エリザベート様。昨日の件について、少しお話ししたいことがございます」
「昨日の件?」
「はい。リリアさんのことです」
その少女は、私をまっすぐ見つめた。
「あなたは、本当に変わったのですか?」
…………。
どうやら、私の新しい学園生活は、想像以上に波乱に満ちたものになりそうだった。
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