改革
こうして、将門は東下の途につく。将門の祖父・高望は、もともとは皇族の高望王だった。だが、九世紀末、増えすぎた皇族を冗員整理する必要に迫られ、平朝臣に降下する。当時は遙任で済ませる国司が多かったが、上総介(上総国は親王任国のため、介が事実上の国司)になった高望は現地に赴き勢力圏を確立した。彼こそ、軍事貴族の第一世代というべき位置にある。桓武平家の看板に、「諸大夫」でも「侍」でもない、田堵であり、武芸を修めたただの武士、戦士と同義語ほどのものたちが集い、坂東平氏の礎を築いた。
これらは、在地領主論のように、地生えの戦士団が中央から下向した貴族を迎えた、という構図ではない。勢力家の百姓を健児として精鋭兵にしたのも、彼らを兵団として組織したのも、すべて、国司、国衙(国ごとの官庁)といった公的機関であり、そこに群盗を退治する武士として赴任した中央貴族である。
トップダウンで、在地勢力は編成されている。
かつての歴史学では、律令国家があり、それが十世紀には崩壊し、以後、鎌倉時代に中世が成立するまでは、その移行期間として捉えられていた。
しかし、現代(いや、二十世紀には定着していたわけだが)の歴史学では、
律令国家
「王朝国家」
中世
と、「王朝国家」という新たなタームが挿入されるようになっている。律令国家は、税を人頭に課す、人身支配を基本としていた。しかし、朝廷が各地の人間を把握することができなくなる。女性や子供ばかりの集落(一定年齢以上の男性に課税するため)税よりもそれを京まで運ぶ手間を恐れて逃げ出すものが続出し、そういったものを管理し、取り締まる能力を持たなかった。
そこで、人頭税から地税に切り替える。地税なら、土地そのものを対象にして、それを経営している田堵から取り立てることができる。併せて、中央支配の限界から、地方の国司や国衙に行政・軍事・警察といった権限を大幅に委譲した。
中央集権的で人身支配を主眼にした律令国家が
地方分権的で土地課税を基軸にした王朝国家へ
大転換したのだ。
併せて、律令農民の恐るべき負担となっていた運搬は、受領(ズリョウ、国司四等官の筆頭、国衙の権限と責任を負った)の郎党や専門の運送業者の仕事になった。一方で、きちんと納税を果たしてれば、地方は受領の独裁体制になり、これが田堵たちとの衝突の火種になった。有力農民、郡司一族、元国司などが田堵となり、彼らは名田(課税対象の田畑)経営をする外部業者だったが、一方で、地縁にもとづき、地域の権益の代弁者でもあった。
公と民、朝と野、どうも、複雑に入り組んでいる。人も物も思ったより流動し、朝廷は地方の実情に合わせてきちんと体制を切り替えている。
『かつては10世紀初頭以降の政治状況・社会状況を指して、中央政府が統治権をほとんど放棄し、地方の無秩序状態をきたした状態と評価されたこともあったが、王朝国家論が唱えられ、史学的検証が進んでからは、以上に見るとおり、中央政府は積極的に社会実態に適合した統治体制(王朝国家体制)を構築していったとされている。』 (Wikipedia「王朝国家」)
平安時代は停頓の期間ではない。どうも、精神も物質も活発に動いている、他の時代同様、試行錯誤の期間である。




