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兵主部参 ビブロフォビア─ひょうすべの日本史─  作者: ずずつすず
平安時代の一変 ─暗黒から光明へ─
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南無八幡大菩薩

 軍事もまた、国衙と受領の管掌だった。その兵力は田堵が担う、いわば「田堵」武士であり、これが、複雑な話だが、受領と対立する群盗海賊と戦い、一方で、受領と権益が対立すれば、その群盗海賊に化した。

 民が沸き、官も沸く。

 そういう東国へ、父良将が鎮守府将軍「諸大夫」武士として君臨する大地へ、将門は下向した。これが、おおよそ、延長八年(九三〇)であり、良将の最晩年になる。

 途中、上野国で、伯父の平国香が、将門を襲撃するという事件が起こる。この襲撃を、国香の弟、将門の叔父である良文が加勢して、どうにか撃退する。

 (伯父上ーーー!)

 「侍」武士というのは、武官ながら、やはり、兵馬の家だ。桓武帝から下ること四世、かなり荒っぽくなっている。

 将門は、一族との抗争がもとになり、やがて朝廷の反逆者になってしまう。なぜ、骨肉の争いをしていたか、諸説あるが、

 当時、まだ長子相続が原則になっていない。将門の祖父・高望王、平高望の遺領は、国香、良兼、良将、良文といった兄弟に分割された。良将の死後、その遺領を押領しようと国香や良兼が兵を入れていた、これが骨肉の争いの原因だとする説もある。一応、国香、良兼(鎮守府将軍)良文(鎮守府将軍)クラスになると、従五位や従四位、「諸大夫」武士なのだが、それでも、この醜聞である。

 (乱世、麻の如しよな)

 将門も、ほぞを固めただろう。どうも、平安時代の地方は闇に閉ざされていたわけではなく、政治経済がしっかりと中央と連動していたようだが、明色を帯びても、争乱の大地だった。

 律令体制という一元管理から脱した、地方分権とその暴走、波乱ーー

 受領の横暴に対抗すべく、田堵負名層が、中央に訴え出ることのできる「国司苛政上訴」(なんという名称だ)という仕組みもあった。十世紀から十一世紀にまたがって、六十年で、史料で確認されているだけでも二十件を超える「国司苛政上訴」が起こされている。太政官は、田堵負名の主張を容れ、受領を解任するのが基本姿勢だった。

 

 『しかし、郡司・百姓層の要求が多分に自利的であることに藤原道長を首班とする太政官も次第に気付き始め、1010年代後期~1020年代にかけて国司解任に至る事例は約5割から約2割へと激減していった。』

『実際、長門国守と紛争を起こした在庁官人が意趣返し的に苛政上訴を行う事例や、丹波国守を苛政上訴していた百姓らがその直後に当該国守を称揚する書状を提出した事例、上訴百姓が京にある国守宅に焼き打ちした事例など、むしろ郡司・百姓層に私欲的な姿勢を見いだすこともできる。』  (Wikipedia「国司苛政上訴」)

 

 一筋縄ではいかない。お上が百姓の味方だと分かると、それを笠に着て、百姓の方が攻撃的に受領を訴える。虎より猛でも、それを退治してくれるお上がいる限り、お上をも利用しようとする百姓の強《したた》かさ!

 

 開発の前線、フロンティアにあって、上も下も相食む混沌が現出していた。

 

 東下の後の将門も、この受領と田堵の紛争に介入した。

 武士の起源において職能論、中央官人から、武芸を専門職とする家柄が、源平藤橘といった素性から起こった。彼らが地方紛争に派遣され、また派遣先に土着することで、中央とパイプのある武士階級が形成されていった。

 これにより、貴族の素性がある武士や、その武芸の発生について説明することができる。 一方で、彼らは四位、五位の「諸大夫」六位以下の「侍」でしかなく、その動員兵力には限界がある。にもかかわらず、地方紛争で頭角を現していったのはなぜか?

 この疑問に対し、「国衙軍制論」が提出された。王朝国家の成立とともに、国衙は地方軍を自ら抱えるようになった。この「国衙軍」を構成していたのは、田堵負名層であり、その郎党だった。

 そこに、中央から、押領使・追捕使(オウリョウ使・ツイブ使、警察・軍事指揮官)に任じられた軍事貴族が派遣される。彼らは国衙軍を指揮することで、自家の経済力を超えた軍団を動かすことができた。

 

 ここに、作者の「ひょうすべ史観」を挿めそうである。武家の後の経緯、八幡神信仰や、幕府幹部層の出自を確認する限り、秦氏の介在はかなり明示的だ。

 先に述べたように、田堵負名、負名として、名田経営や納税を代行する田堵には、漢文の読み書きや計算能力、農場経営や時には土木工事のノウハウさえ必要になる。当時、この条件をもっとも濃厚に備えていたのは、農業土木の氏族であり、これまでも西日本や畿内の開発を成功させてきた秦氏だとかんがえられる。

 秦氏は、その内部に渡来人「秦人」倭人「秦人部」もとは他の豪族だった「秦部」がいる。

 地方によって分けると、こうなる。

 ・葛野秦氏(山城国葛野群太秦を拠点とする。長岡京や平安京遷都に貢献した)

 ・山城秦氏(とものみやつこ〈伴造〉として、秦氏の族長として君臨した)

 ・河内秦氏

 ・豊前秦氏

 ・播磨秦氏

 ・美作、備前秦氏

 ・依知秦氏(えち秦氏、近江国愛知郡に居住、郡司を務めた)

 ・若狭秦氏

 ・越前秦氏

 ・東国秦氏、東海秦氏(駿河、甲斐、相模、武蔵といった東日本秦氏の総称)

 ・信濃秦氏

どこにでもいる。田堵には、郡司になっていた在地豪族の子弟が、その富裕と教養であたっていたこともあろうが、このバックボーンを見る限り、秦氏も相当数参加していたのではないだろうか。

 

 すなわち、田堵負名層、国衙軍を編成している「田堵」武士は、圧倒的に秦氏が多かった。

 これは、中央にも責任の一端がある。すでに秦氏の神、八幡神は、一品という皇族待遇だ。九世紀の前半には、これが皇祖神として扱われることになった。

 思ったよりも朝廷や官僚が、地方の現実に向き合っていた、とはいえ、平安時代である。宗教全盛の時代、まっただ中だ。

 皇祖神の氏子を名乗れば、自然、受領国衙に対し押し出しが利き、これを目的に秦氏へ仮冒を働き、八幡神に改宗するものも現れただろう。つまり、不輸不入特権の前駆段階だ。

 国衙軍は、同時に、ひょうすべ軍団だったと概論することができるのではないか。



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