将門、純友、八幡神
南無八幡大菩薩だ。実際に、有力社寺は不輸不入を勝ち得るし、その代表格に石清水八幡宮も列していた。
「われらは皇祖神の氏子なれば」という迫力のあるアピールは、受領を退ける霊験があったことだろう。国司苛政上訴濫発を見る限り、田堵負名層は、この闘争には、使えるものは何でも使う。
中央で天皇家に直結している信仰など、いの一番で神輿に担ぐだろう。
こうして、南無八幡大菩薩の声は、受領に対する冷笑とともに、巷間に広まったのではないか。
そこに、十世紀に入るか入らないかの時点で、平高望が下向する。
(平姓?)
(平朝臣というのは、桓武帝の御末苗かや!?)
秦氏にとって、秦、秦王朝の名前は、ただの看板だ。しかし、秦氏の影響力が妙に強い熊野では、徐福渡来伝説があり、徐福神社の境内では、秦時代の半両銭が発見されている。熊野の八咫烏・・史記の「秦本紀」に記録される秦の女祖は、黒い鳥、玄鳥の卵を呑み込むことで、始祖を産んだという。
熊野の誓紙は、武家社会のみならず、農村でもことごとしい契約や一揆の場面で契約書として用いられた。正式名称は「牛王宝印」漢方薬の材料・牛黄(ゴオウ、牛の胆石)が由来だという説もあるが、熊野に色濃く遺る秦氏の影響をかんがえれば、牛頭の神、兵頭蚩尤だろう。蚩尤のみではない。兵主神は、大国主やスサノヲを祀っているが、スサノヲは、祇園では「牛頭天王」だ。
牛魔王のようなこの神こそ、秦氏の本尊である。
ことほど左様に、秦氏は、血統よりも系図を重んじる文化を持ちながら、いや、それだけに、系図上の祖というのを大切にする。
桓武天皇は、ご自身が、土師氏(ハジ氏)にも通じる渡来人系の母親を持ち、かつ、長岡京や平安京造営で、秦氏を重んじた。
秦氏のみならず、渡来人にとって、じつに大きな意味を持つ御方だ。
その子孫・・しかも、臣籍に下ったばかり、堂上の余香をまとう平高望だ。
下にも置かぬ、どころではない。悦んで、上に戴いたことだろう。巨大な存在感の「諸大夫」武士として、上総に君臨した。八幡神の神号とともに、「田堵」武士が集まって、早速、坂東平氏という巨大勢力が成立する。
八の
幡が
なびくが如く。
孫子の将門の代でも、まだまだ、その威風は健在だった。将門は、この八幡の軍団を率いて、受領と対立していた凶党(対立田堵負名層)の討伐に参加したこともあっただろう。残念ながら、彼は滝口武者ながら、検非違使尉に就くことすら叶わなかった身分であり、押領使(警察・郡司指揮官)になり、華々しく凶党を追った記録はない。
それほど卑賤だったのだ。
彼が目に見えて頭角を現すのは、骨肉の争いだ。
さて、同時期に、これは歴然と、海賊討伐に功績を上げていた武士もいる。
藤原純友だ。彼は、藤原北家長良流良範(よしのり、従五位下、太宰少弐、筑前守)三男、伊予国に赴任し、海賊退治で名を挙げた。この「海賊」には、田堵のような、豪農や郡司一族、あるいは、瀬戸内海沿岸らしく、有力水軍(水運業者)の出身者が多く含まれていた。彼らは東国の群盗と同じく、武を修めることのできる富裕層で、京へ上って、そこで舎人(警備役)として、おのれの武芸を発揮していた。舎人「えふのとねり(衛府の舎人)」には、免役の特権がある。臨時の労役を免れ、かつ、彼らの給与(貢納物)は、瀬戸内海沿岸の国々がまかなうことになっていた。
ここに、マネーロンダリングが成立する(貨幣ではないが)
一族の収穫物を、おのれへの給与にすることで、受領に手を出せなくして、それを、一族の蔵にもどすのだ。
帳簿上の操作で税金対策をしているのである!
海の連中というのは!
しかし、延喜の改革(十世紀初頭)で、朝廷は財政建て直しを図る。不正の温床になっている免役舎人を大量に解雇し、かつ、王朝体制への移行で、現地の税金管理を受領へ一任した。
こうして、えふのとねりであった瀬戸内田堵負名層は、行き詰まってしまうーー彼らが武力で反乱を起こしたのは、こういう背景がある。[しかし、現代さながらの官民の攻防ではないか]
そこに派遣されたのが、藤原純友であり、従兄の藤原元名(もとな、従四位下、参議)だった。元名は伊予守であり、純友も伊予掾(ジョウ、守・介・掾・目)だった。
彼らは、見事海賊を説得し、千人以上を帰順させた。
伊予の国司、水軍の国の国司に赴任し、さらに、こうして海賊を説得できたのには、純友一族に、海の衆、海の国の流儀に通じるものがあったからこそだろう。
純友の属する藤原北家長良流の祖、藤原長良(ながら、純友の曾祖父)は、正室が難波淵子という女性である。難波氏はその名の通り大阪に拠点をもつ有力豪族で、土地柄、海運に通じていたことは間違いない。平清盛の時代には、伊勢平氏の有力郎党だった。海の平氏の幹部、という点でも、海の氏族だ。加えて、清盛嫡男・重盛の乳母も、難波氏娘である。
つけ加えるに
平重盛の母親は、高階基章娘
高階氏は、天武天皇時代に后に上がった「尼子娘」との間に生まれた、たけちのみこ(高市皇子)から発した氏族だ。
「尼子娘」は、筑紫の海洋豪族、海北道中(朝鮮半島との交易ルート)を管掌する
宗像氏の娘なのだ。
『八幡神は、祭神は十五代応神天皇、
その母親であるジングウ皇后(神功皇后、息長帯姫)
さらには、姫大神をまつっている。姫大神は、宗像三女神の総称だ。たごり姫(田心姫)たぎつ姫(湍津姫)いちきしま姫(市杵島姫)
いちおう、主神は応神天皇なのだが、不思議なことに総社の宇佐八幡宮では、姫大神を祭る拝殿が中央にあり、左が応神天皇、右が神功皇后こと、おきながたらし姫(息長帯姫)という順番になっている。
あたかも、姫大神が主神であるかのようだ。』
八幡神を構成する氏族の一角だ。
そして、平清盛は、厳島神社を増築し、平家の氏神としたことで知られている。
厳島神社の祭神は、「いつきしま姫」市杵島姫
宗像三女神、姫大神の一柱だ。
清和源氏のみならず、
桓武平氏も、八幡神を氏神に選んだのだ。
この海の女神と清盛の間に生まれた「海の御子」を、難波氏の娘が養育したのだ。
難波氏が、海の国に深く食い入った一族だったことが分かる。
そして遡って藤原純友、長良流に属する彼も、官職や経歴を見る限りは、どうも、海の利権を知悉しており、そのため、海賊の説得に成功した。
「長良流難波氏末裔ならば、話が早い」
そういう空気が、瀬戸内海の海賊たちの間にあったのだろう。




