宗像氏
平清盛が、日宋貿易に力を入れていたのも有名だ。と、なれば、玄界灘を通る正規のルート「海北道中」を押さえる宗像氏の協力は必須だ。
だいたい、宗像氏も、ただの豪族ではない。いや、これに関しては、九州や山陰、四国あたりの豪族は皆同じなのではないだろうか。
これら西日本諸侯は、本当に、畿内を、日本列島の方を向いていたのだろうか?
彼らにとって、海、というのは、なじみ深い交通網だった。東日本の人間にはかんがえられないくらい、西日本は、瀬戸内海を通じて畿内から九州まで一体になることができる。 内海の場合は、そうだ。
しかし、これが、外洋となれば、彼らは、はたして、中央に知られているとおりの顔しかなかったのか、どうか。
隠岐のような離島でさえ、朝鮮や渤海国と交易をしていたという。日本─朝鮮─中国(中国地方と区別したいので、以後〝支那〟呼称とする)の貿易ルートは、つい、玄界灘を、対馬経由で、というルートのみだとかんがえてしまうが、日本海沿岸部は、裏日本、などと揶揄されつつ、その実、外海と貿易の可能性に対し無限に開けている、好機の港だ。弥生時代から、鉄やヒスイをやりとりする交易が行われていたし、日本に朝貢貿易をしていた渤海国とも、宋や明とも民間で貿易をしていた。
あんがいに、日本は鎖されていない。日本海というのは俯瞰すれば、大陸と日本列島の内海であり、交易をする地勢なのだ。
内海が偉大なのは、それが、外海のような自然界の海ではなく
人間界の海だからだろう。
沿岸部諸都市は、陸上、地勢という制約に縛られることなく、広大な内海沿岸部と船を行き来させることができる。その自由度は、一方通行の道路とスクランブル交差点以上の開きがある。
スクランブル交差点が人通りの多い場所に位置するように、内海沿岸部の交通は盛んになるのだ。
瀬戸内海の場合、畿内は、自分たちも沿岸諸都市(堺、紀伊湊など)であり、中国や九州情勢をつかんでいただろう。
しかし、日本海を舞台にした私貿易、あるいは玄界灘、東シナ海に航路を取られてしまうと・・
この地域の貿易を把握しだしたのは、平清盛か、その父親の忠盛あたりが最初ではないか、作者は、そうかんがえていた。
しかし、どうも、歴史学というのは、以前の常識をさんざんに打破しているようだ。
なんと、朝廷は、十世紀あたりから、九州で起こっている日宋貿易を把握し、これをコントロールしようとしていたという! 菅原道真の進言で、遣唐使は廃止されたものの、支那の貿易商は、盛んに日本にやって来ていた。
朝廷は、貿易は太宰府「鴻臚館」が一括管理するという方針で、私貿易を取り締まっていた。だが、監視の目の届きにくい博多が台頭する。太宰府役人にも私貿易に手を出すものが現れ、朝廷の統制が形骸化していく。十一世紀、千年代になると、「トイのニュウコウ」刀伊の入寇があり、やがて清を建国する女真族が何十回と侵略行為を行った。太宰府は農民を中心とする府兵を集めたが、海賊の襲撃に対応できず、在地の、土着化した武士団が鎮圧に貢献した。このことで、太宰府の権威が失墜し、ますます貿易の統制が弱まった。
このとき、刀伊(女真族)に対抗し、功績のあったものたちに
・藤原政則(まさのり、太宰少弐)大蔵種材(たねき、従五位下、諸大夫武士)平為賢(ためかた、従五位下、諸大夫武士)
の名前が挙がっている。
これらのいずれも、渡来人や、宗像氏の影響下にあることに注目したい。
先に、宮中の高階氏は、宗像氏「尼子娘」と天武天皇の間に生まれた高市皇子から発し、宗像氏の宮中勢力だと述べた。
だが、天武天皇と平清盛とでは、五百年の開きがある。本当に、両者、宗像─高階が連携していたかどうかだが、これは、両者は密接に関わっていた。高市皇子は、畿内に、宗像氏の拠点となる大和国宗像神社を建立し、宗像大社を勧請する。元慶五年(八八一)初代神主に高階仲守が就任して以来、神主家は代々高階氏が就く決まりだった。宗像大社─宗像神社を通じて、母体と廷臣は、連携を欠かさずにいた。
刀伊の入寇に功績のあった、右の三人は
・藤原政則(摂政関白藤原道隆の子とも孫ともいわれる。道隆の正室が高階貴子)
・大蔵種材(大蔵氏は、秦氏や、やまとのあやうじ〈東漢氏〉から発する)
・平為賢(妻が高階成順娘)
であり、高階氏(宗像氏)と秦氏の縁者だ。まあ、秦氏は、全国的に縁者がいるから置くとしても、この地域の、そして宮中での高階氏の勢力は、目を瞠るものがある。天皇や上皇の寵姫から、地方武士の室まで、案外なところに網を張っていて、海の国のネットワークが平安時代を絡め取っていたことが散見される。
宗像氏。
神功皇后の時代から、筑紫の海と朝廷に君臨した海洋氏族だ。前者は明に、後者は暗に。現在でも八万点の国宝を有する宗像大社があり、貿易と外交、そして宮中政治に暗躍した。 博多は、宗像氏の勢力圏である筑紫国だが、宗像郡に隣り合う那珂郡(なか群)で、太宰府が統制する港である。太宰府は十五㎞ほども離れ、そして役人も私貿易に手を出している。ここで貿易が盛んになると、宗像氏は鐘崎や神湊といった勢力圏に貿易船を呼び込み、「唐坊」という宋人の暮らすチャイナタウンが形成されていた。
『筑前国宗像社の大宮司家・宗像氏は、古代以来、海の領主で、古代末・中世には最も積極的に海外交易を行った。九州における貿易の中心的役割をはたしていた。宗像大宮司は二代に亘って宋人女子と婚姻しており、王氏・張氏らを母に持つ人物が、歴代大宮司のなかに、いく人かいた。当時の神官は国際派で、中国語も堪能だったと推定できる。貿易に携わる宋人たちも、また船頭・船乗りたちも、現地妻である日本人妻を姿る。バイリンガルな環境だった。』 (「宗像大宮司と日宋貿易 : 筑前国宗像唐坊・小呂島・高田牧」九州大学比較社会研究院教授・服部英雄氏)
海の大司祭であり、やり手の貿易商。それが宗像氏だ。
彼らは博多の貿易商「王氏」北宋商人「張氏」から嫁をもらい、北九州の海陸に君臨、十四世紀になると倭寇を率い、朝鮮の史書にもその悪名が記載されている。
彼らはただの神主ではない。




