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兵主部参 ビブロフォビア─ひょうすべの日本史─  作者: ずずつすず
新皇伝~海陸のひょうすべ~
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13/15

真相

 そもそも、宗像大社の国宝八万点というのは、宗像三女神信仰の聖域・沖ノ島が、一号から二十二号の遺跡に富み、祭祀に用いられた古代の奉献品が次々出土するーーそのことごとくが国宝に指定されるーー別名「海の正倉院」だからだ。

 銅矛、銅鏡、陶器、貨幣、玉、剣、馬具、指輪、装飾具、織機・・枚挙に暇がない。

 ササン朝ペルシア(二二六~六五一)のカットグラスまで出土しているのだ!

 「神宿る島」・・福岡の海上数十㎞に位置するこの島は、宗像三女神長女「たごりひめ(田心姫)」の鎮まる沖津宮だ。

 「神守る島」筑前大島は、海上十㎞ほど、上陸禁止の沖ノ島の遙拝所であり、次女の「たぎつひめ(多岐津姫)」の鎮まる中津宮がある。

 そして、福岡県宗像市、陸上の辺津宮だ。ここには、先も述べたとおり、三女の「いちきしまひめ(市杵島姫)」が鎮まっている。

 これら海の女神を祭る宗像大社は、聖職者であり、豪族であると同時に、巨大な貿易業者でもある。

 ギヤマンのグラスに葡萄から作った胡酒を注ぎ、絨毯を敷いた一室の長椅子で煽る・・織田信長としか思えない道楽を、極端な話、平安時代の宗像氏が堪能していた可能性さえある。

 八幡神も、とんでもない豪族を包含しているものである。

 だが、九州の西岸部、山陰といった西国豪族は、みな、ある程度、似たような顔をしていたのではないか。

 彼らは畿内に忠誠を誓う一方、富と宝物をもたらしてくれる海に臨み、大陸を向いていたのではないか。

 日本地図などないーー行基図(ギョウキ図)という全国を俵型にまとめた、えらく概念的な地図はあったものの、きちんとした海岸線の内側を「海内」として、一体感を感じさせてくれるものがなかった時代だ。

 幾重にも国境を越え、異国のように習俗や下手をしたら言語さえ違う集落を越えて、ようようアクセスすることのできる畿内より、

 海一つを船で越えれば、こちらへの需要と、こちらの需要に叶う品々をたたえた対岸へ渡ることができる。

 そんな海と大陸にこそ、西国豪族は、古来からのアイデンティティの何割かを置いていたのではないか。以下は、作家の井上ひさし氏が対談で言っていたことだが、九州も東北も、京都からの距離ではそう変わらない、なのに、どうして、九州の連中は、あんなに陽気にやっていられるんだ。もちろん、東北を舞台に『吉里吉里人』を書いた作家で、高度なユーモアだが、確かに、あくまで印象上通念上の九州人は陽性で、地方意識に鬱屈としている様子はない。

 作者は、彼らが(熊襲、島津、薩摩閥)歴史上何度か大きな役割を果たし、朝廷を揺り動かした実績がある上、稲作を始め大陸から伝来した文化の出発地点でもあり、

 かつ、彼らはそんな大陸と、ヤマトを通さず、直接交易をしていて、自分たちの上にふんぞり返っているヤマトも、支那の顔色をうかがっている、その支那と間近に取引をしていた歴史が、九州人の自負心の根幹にあるとかんがえている。

 陸地の王権より、海の向こうの大国に属している、面従腹背、というと言葉が強すぎるが、彼らのアイデンティティは、列島と大陸の二重構造になっていたのではないか。

 九州、という言葉の語源は定かではないが、支那では、「天下」そのものを指す言葉が九州だったのだ。

 ここが、おれたちの独立した天地、独立国だ。そんな意識を半ばもっていても、おかしくはない。

 清盛と宗像氏の話から、ずいぶんずれてしまったが、西国、海の衆の心理について、ざっと触れた。

 話をもとにもどそう。

 藤原長良流である伊予掾・藤原純友は、長良の正室である難波淵子の子孫でもあり、海の国の流儀に通じ、海賊たちを帰順させた。

 しかし、彼が、将門とほぼ同時期に反乱を起こし、東西で起こった大規模な武士と、田堵負名階級の反乱に、朝廷が大いに混乱したのは有名だろう。

将門の場合、一族の内紛が火を吹いた。父良将の遺領を、伯父である国香や良兼に押さえられた。

 この遺領、というのは、具体的になんなのか、じつは分かっていない。土地だという説もあるが、当時の兵団(徒歩兵)を集めるには、現物支給で布なり刀なりを与えなくてはならず、そのための物流拠点だったともいわれている。ともかく、強欲な伯父たちに遺領を押さえられ、将門は首が回らなく(首だけで飛び回れる人物なのだが)なってしまう。 軍制、というものに言及した方がいいだろう。まず、律令制の軍隊は農民を徴集した軍団だ。だから、乗馬技術がなく、必然かち(徒歩)の軍団になる。

 この軍団では、蝦夷の乗馬した、騎士たちには敵わなかった。騎兵というのは、火器が充実する十九世紀後半までは、戦場で存在感を発揮しつづけていたのだ。コストはかかるものの、馬というものは、体重四、五百㎏、もちろん走行に長け、その突進たるや、動物種が違う、としかいいようがない。騎士の武技などなくとも、騎馬でぶちかますだけで、歩兵軍団は壊乱する。

 この蝦夷の騎馬軍団に対抗するため、同じ騎士でなくては軍事力として役に立たなくなった。

 そのため編成されたのが、健児、こんでい、有力郡司や田戸負名の子弟「健児」だ。馬の費用込みであり、自然、富裕層しか参加できない。

 同時に、中央の「諸大夫」「侍」武士たちも、騎射技術を磨き、騎馬戦闘に耐えうる武芸を修めた。

 従って、「諸大夫」「侍」「田堵」武士らは騎兵であり、その脇を固める面々は、特に技術の要らない徒歩軍団だった。

 この歩兵を集める資金源を、伯父たちに押さえられ、さらに、将門は、関東に下向する際、邪魔者として襲撃された。彼が平良将の嫡子だったかどうかは説が分かれるが、すくなくとも、遺領簒奪を狙う伯父たちの障害になり得る優秀な人物だったのだろう。

 それから五年後、本格的な内紛に突入する。

 発端は、みなもとのまもる(源護、常陸大掾)という人物だった。筑波山西麓に広大な領地を持っていた護は、常陸国の土豪・たいらのまき(平真樹)との間に土地争いがあった。

 真樹は、鎮守府将軍平良将の子供であり、滝口武者をも務めたことのある将門に調停を依頼する。

 荒っぽい坂東武者「侍」武士であり、調停といっても武力を後ろ盾にしなくては話にならない。将門は、郎党(田堵負名層ら)とともに、筑西市野本に入った。

 ここで、襲撃された。

 仕掛けてきたのは、護の子供たち、たすく(扶)たかし(隆)しげる(繁)だった。形勢は不利だったが、将門は、追い風に乗って矢の飛距離を伸ばし、兵を進めて三兄弟の軍を打ち破る。

 (坂東の風が味方しよる!)騎射技術が活きている。おそらく、さんざん射すくめて、動きの固まった敵軍に突撃、馬体と歩兵の武器とで、敵軍を壊乱させたのだろう。野本の戦いは、陰暦二月に起こった。筑波おろしという北西風が吹く季節で、これが、矢頃をのばしたのだろう。

 敗走する源氏三兄弟の軍を追い、将門は、三兄弟を討ち取った。

 (仕掛けたのは、護じゃな)

 こうなれば、騎虎の勢いだ。将門は、真壁郡の護の館へ打ち込んだ。

 このあたりは『将門記』にも欠損があり、経緯が判然としない。

 ただ、護の館へ軍を進める中で、将門の脳裏に、謀略の地図が描き上げられていったのではないか。

 彼の政敵は、国香と良兼という伯父たちだ。そして、国香は、まもるとは水魚の交わり、まもるの妻を娶り、まもるから常陸大掾の官職を引き継いでいる。両者の館も同じ真壁郡にある!

 (奇貨じゃ!)

 拾うべし、と、そう思ったのではないかだろうか。

 国香が加担して自分を襲った、といっても通る状況であり、それなら、正当防衛で

 政敵を除くことができる!

 むしろ、このくらいのソロバンをはじける人物でなければ、六位以下の彼が、鎮守府将軍である伯父たちを差し置き、「新皇」を僭称するところまでのし上がれるとは思えない。

 将門軍は、そのまま、真壁郡のまもるの館へ、打ち込んだ!

 「お、おのれ、滝口小次郎〈将門〉めーーー!」

 将門は、館に火を放ち、さらに周辺の村々も焼き打ちした。ーーこの、群盗どもとやり口が紙一重なあたりがいかにも当時の坂東武者か。

 まもるは、命からがら、館を逃れる。

 (伯父上が、匿われたか)

 そういうことにした。

 彼は国香の館も襲撃した。

 

 「小次郎!? 謀反か!」

 

 国香からすれば、そうとしか解釈できない状況だっただろう。弟良将の遺領に手を出したつけが回った。

 一介の「侍」無勢が、軍事貴族のおのれに、牙を剥いた!

 「おおおぉおおおーーー!?」

 たちまち館は取り巻かれ、煙と炎が国香に迫る。

 将門の政敵は、ここで、焼死した。

 

 将門は、冷淡な面持ちで、館の燃え崩れる様を見つめている。

 

 


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