平安無法地帯
だが、みなもとのまもるは生きのびているし、彼は、他ならぬ将門の伯父たちへ、何人も娘を嫁がせている。伯父の良兼、叔父の良正も、嫁ぎ先だ。
当然、復讐を呼びかけた。
「国香殿は焼き殺された! あの無道な小次郎めに、攻め滅ぼされたのだ!」
そう、娘婿たちへ、呼びかけた。
「わが子も、あやつの手にかかった! たすく(扶)たかし(隆)しげる(繁)! いずれも、あの悪鬼・将門めの凶刃に儚うなったわ!」
床を叩き、喝破する。
「源家も、平家もあやつの禍害を被っておる! これはもはや、一族の悪縁じゃ! 断って毒花を枯さねば、われらこそが徒花となりかねぬ!」
良兼も良正も、良将遺領に手を出していた加害者だ。おのれが復讐劇の槍玉に挙げられるかもしれぬ、という懸念はある。
次に大きな動きがあるのは八ヶ月後、承平五年(九三五)十月になる。その間、将門も、一族の突き上げに苦慮しつつ、奪われた遺領を取り戻そうとしたのだろう。
殺された国香の長男・貞盛は京で出仕していた(左馬允、従六位上相当)父の死を聞き下向、彼は、復讐に積極的ではなかった。
国香が、野本の戦いに具体的に加勢していた証拠はない。だが、みなもとのまもるも、娘婿一族である坂東平氏の一角・将門を討つにあたって、国香他に内諾を得ていなかったとは思えない。
(状況からして、小次郎殿は父上と護殿の罠にかかったのであろう)
どうも手強い男のようだし、敵に回すよりも和睦した方がいい。彼は、国香の跡を継いで、常陸大掾に任じられている。常陸は親王任国だから、介が事実上の長官で、掾はその下だ。常陸大掾は、決して軽い官職ではない。
(わしも、京での立場というものがある。東国にかかずらって足許をすくわれてはたまらん)
ーードライだが、至極現代的な考え方である。作者はひそかに期待しているのだ。在地領主一元論、ボトムアップでの中世の形成、この既存史観を否定し、学界の定説であるトップダウン型の推移を反映することで、平安時代から近現代まで、日本人は日本人、という共通の性格と行蔵を見いだせるのではないか。
だが、まもるが焚きつけて回る。「いざや、平源の病患を除かん!」この復讐論に、兄を殺された、良兼と良正が乗った。
(小次郎めが!)
どうも、先に仕掛けているのは伯父のグループで、将門はそれに苛烈すぎる報復を見舞った形だ。
やりきれないものだが、それが、現実というものだろう。
この伯父たちが、貞盛をも説得にかかった。
(まずいのう)
貞盛もぼやきたかっただろう。ここでこじれれば、おのれの常陸大掾としての鼎の軽重を問われかねない。さりとて、鎮守府将軍の良兼を含む一族の長老が、復讐を説きつけている。
極道のトップに就任する際も、先代組長が討たれていた場合、仇討ちが不文律だ。同じ行動原理が、武官である武士にも、突きつけられる。
荒っぽいが、この時代の気風、いや、こういうときに是非を決するのが幕府で、それがない以上は、面子で進退するしかない。
舐められてはたまらん。
かくして、貞盛も復讐へ引き込まれる。
少し先走りすぎた。
神無月、抗争が火を吹いた。鬼怒川に面する新治郷川曲(かわまがり、八千代市)に、平良正が、陣を張った。将門もこれに応じ、二十一日、両者は激突した。
将門は良正軍を打ち破り、名だたる桓武平氏・高望の息子を二人破り、源氏を敗退させ、いよいよ武名を轟かせる。
さて、このあたりで、将門の活動と、秦氏の勢力圏の位置関係に目を向けたい。主に、ここまでの抗争は、常陸国で発生しているが、茨城県南部の東西に広がっていくあたりで抗争しており、渋谷区幡ヶ谷はやや遠いにしても、坂東に於ける、秦氏の最大の拠点・幡羅郡(埼玉県熊谷市・深谷市あたり)は、この抗争を意識せざるを得なかっただろう。
親王任国での戦いなのだ。
そして、国香やまもるが拠点としていたのは、常陸国那珂郡だが、ここにも、幡田郷という秦氏の拠点がある。
(桓武帝の末裔が、相克されている)
長岡遷都、平安京造営・・秦朝元(娘が藤原種継母)秦忌寸足長、深草秦氏・・桓武帝の御子である神野親王(嵯峨天皇)の乳母は、大秦公(うずまさのきみ、秦氏)の女子だ!
中央から赴任する有力者と結びつきたい田堵負名としては、大いに耳目を寄せていたであろう。
そして、この荒っぽい時代、武士の訴訟機関である幕府がなく、京は遠く、地方支配は受領に委ねられている。ヤクザモンの論理で運営される坂東は、この強力な旧主末裔に、注目していただろう。
(よくない)
平良兼は、かぶりを振っただろう。彼の立場は複雑だ。将門の妻は、良廉娘なのだ!
しかし、彼は、国香亡き後、一族の長兄である。そして、一族秩序を乱しているのは、間違いなく将門だ。
(われらの基盤である秦氏を切り崩されてはたまらぬ)
とまで、かんがえたかどうか。ここが難しいのだ。
当時の坂東に、秦氏の勢力圏が広がっていたことを示す傍証は、いくらでもある。だが、具体的な田堵負名層の名前が、卑賤故にあまり残っていない。事件を起こしたり、朝廷の事業に関わったりして、記録や日記に名前をのこすところまでいくものがほとんどいないのだ。
ざっと、これまで、二十名ほど田堵負名層を目にしただろうか。その中で、秦姓は、三人か四人ほどだ。個別の氏姓ではトップなのだが、坂東が秦氏の地だった、と、明言するには寂しい気もする。この点、作者も気持ちが悪いのである。
しかし、そもそも秦氏は労働者階級で、あまり押し出しの利く氏姓ではない。八幡信仰を受領相手の闘争に持ち出したく、秦氏と縁続きになるものは多かっただろうが、そういう事件や事業の旗頭としては、もっと響きのいい氏姓「物部」「紀」といったものを奉戴することになろう。八世紀には、渡来人は尊ばれていたものの、その技術は奈良朝の日本人も習熟し、いわば一般化する、九世紀になると、菅原道真の提言もあり遣唐使も廃止され、国風文化を充実させる風が強まった。
(渡来人?)
蕃別か、というまなざしは、このあたりから色濃くなる。八一五年に成立した新撰姓氏録では「皇別」「神別」の下に「諸蕃(蕃別)」が置かれ、はっきりと、日本古来の氏姓より、渡来人姓は下だと位置づけられた。
あんがいに中央と気分、気脈を通じ、そして、経済や人の流れも地方と中央がつながっている。
この新平安史観(いや、二十世紀には定説になっていたのだが)では、渡来人へのさげすみも地方に伝播し、また、土地争いで自らの正統性を主張する都合もあり、地名姓を名乗る秦氏が増加していただろう。
そういったことごとを提示しつつ、当時の坂東に秦氏が、ことに田堵負名層に多かったであろう傍証を提示していく。可視化されない、明文化されない田堵負名層の秦氏を、感じ取っていただけるかどうかは読者諸氏に一任し、東国は秦氏の土地だったという前提に立って、ひょうすべ史観を描写していきたい。
兎も角、将門に娘をやっている良兼は、決断しなければならなかった。
(ーー仕方がない。婿殿を断とう)
もはや、ことは、源平を巻き込む騒ぎになっている。
ここで将門を討ち鎮めなければ、他日に響く。
良廉は、良正とともに、貞盛を説得した。
(叔父貴)
こうなれば、貞盛も、腹をくくるしかない。
滝口小次郎(将門)とは、京で、何度か飲んだことがあるーー実直に勤め上げている男だ、という印象しか持たなかったが。
(飛躍しおったな。鳥が鳴くあづまの怪鳥かよ)
ぬえ鳥ともなって、兵乱の先触れを告げられてはたまらぬ。
承平六年(九三六)六月、貞盛とともに良廉は軍勢を集め、上総国を出陣する。
『・霊亀二年(七一六)駿河など七ヶ国の元高句麗渡来人一七九九人を武蔵国に入植させ「高麗郡(こま郡)」を設置』
と、以前に記述したが、この原文は、続日本紀
『以駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉』
であり、上総にも多くの渡来人がいたことが分かっている。
この良兼・貞盛連合軍は、下野国に入り、ここから南下して、下総国豊田にある将門の拠点を襲う。
(これは敵わぬな)勘のいい男である。後世の新田小太郎義貞も、太平記で「義貞は平野の戦いは得意だが、山での戦いはそうではない」と尊氏に評されていた。
それによく似ている。
坂東という平場での、機動(maneuver)を心得ている。本拠地を衝かれては、防戦はおぼつかない。
ならば、機先を制してやれ、と、見た。
かくして、下総国境あたりで、良兼・貞盛連合軍は、将門の先手に当たる。将門軍は、わずか百騎だったという。とはいえ、騎、というのは、武士の構成単位、騎馬武者「侍」「田堵負名」であり、それぞれが歩行軍団を率いていたとしたら、どうなるのか?
これら、騎馬武者に随伴する歩兵は「ホソツ(歩卒)」「バンルイ(伴類)」と呼ばれている。作者はつねづね感動しているのだが、日本の研究者は、こんなところにまでメスを入れている。当時、これら歩兵は、一騎あたり、二、三人だ。
つまり、将門勢は三百から四百名。良廉・貞盛連合軍は、大軍と表記されており、千数百から二千人ほどは集めていたのかもしれない。
これは、おおいくさ(大軍)である。




