侍
さて、ここから現代武士の「職能論」に入っていく。律令国家(公地公民、中央集権)から王朝国家(地方分権、地方への委任、地税への変換)に移行する頃、十世紀初頭以降に、
実務系官人の専門知識・専門技能が、それに就いた家の「家芸」と化し、特定の一族に占められる現象が起こった。
紀伝道(歴史学科)の菅原氏・大江氏・真夏流日野家
明経道(儒学)の中原氏・清原氏
明法道(法学)の坂上氏、中原氏
暦道の賀茂氏
天文道の安倍氏
まず、学問の分野で「家芸」化が進行した。該当分野の知識を独占することで、彼らは、官職も一族で占有することができた。
事務系の官職でも、先例や専門知識を蓄積することで世襲化に成功、太政官の事務を清原氏・中原氏・小槻氏などが占めている。
この現象が、軍事の世界でも起こった。軍事を家芸化した官人が即ち「武士」であり
桓武平氏、清和源氏の他にも
高階姓高氏
嵯峨源氏渡辺氏、宇多源氏佐々木氏、藤原南家為憲流、藤原北家秀郷流や利仁流、観修寺流上杉氏、惟宗氏・・
といった面々が、武芸を一族の専門技能とし、安定的に官途に就けるようになった。
ここからが大切である。
『王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍と呼び、彼らが行政実務を担っていた。
武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。』
(Wikipedia「武士」)
無法状態に対抗し、武装した田堵が、荘司らを護衛するようになり「侍ふもの」侍、と呼ばれるようになった、というのが、在地領主一元論だった。
そうではない。
省庁の公の呼び名に、六位以下の技能官人や家人を「侍」さむらいと呼ぶと、そう規定されていたのだ。
世界的な名詞であるサムライは、朝廷の行政用語だったのだ!
だから、当然、太政官にも侍がいる。事務職だ。紀伝道の学者の侍、経理担当の侍、明法家で法律を作る侍・・六位以下の実務官僚はサムライなのだ!
野の英雄どころではない
朝の官僚としかいいようがない。
六位以下が「侍」武士
これに対し、軍事貴族と呼ばれている四位や五位までいける「ショダイブ(諸大夫)」武士もいた。源頼朝も、平家を亡ぼすまでは正四位下だ。
幕府の時代になるまでは、このあたりが天井である。
『平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。
当初、受領達は騎馬襲撃戦を得意とする私兵として東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を鎮圧に当たらせた。
しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。
それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。
おりしも、宇多天皇と醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った国政改革(律令体制の引き締め、作者)により、全国的な騒乱状況が生じていた。
彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜形太刀を身につけ長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。』 (Wikipedia「武士」)
関東武士集団、やはり、みちのくえみしも色濃い。
さて、こうして、中央から、田堵や郡司一族が参加する群盗海賊を成敗するために、「侍」階級の武士たちがやって来た。
諸大夫たちは在京であり、血なまぐさい現場仕事は六位以下の「侍」だ。
平将門は、父親の良将こそ鎮守府将軍(従四位下、諸大夫)ながら、彼は、六位以下の「侍」がつく、「滝口の武者」でしかなかった。滝口とは、清涼殿の北東で、ここに詰めて天皇を警固する滝口武者は、天皇のすぐ側で武勇をアピールすることのできる憧れの地位だ。将門は、十五歳の時に上京し、十二年、在京していたという。夢に賭け、夢破れるには十分な時間か。
彼は検非違使の助やジョウ(尉)を望んだが、就けなかった。検非違使尉など、従六位上相当なのだが、それさえ叶わなかったあたり
「侍」という身分の悲しさがある。
彼が都を去った時、双眸には鬼気が宿っていたであろう。
(滝口では、わが武勇は示せなんだ
(この上は、地方)
哀れや、徐福が都を去ってから、一世紀以上経ってから、野に宿願を掛けるものが現れる。
平安の世は、四百年つづく。
挽きつぶされるもの
弾かれるもの
個々人は、平安などではあり得ない!
(鄙に跋扈する群盗海賊を討ち鎮め、以て我が名を轟かさん)




