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ミッシングリンク再び

 では、どの時点から始めよう。延暦六年(七八七)に物語が始まる大分前から、秦氏は、日本に渡来していた。五世紀初頭だろう、古事記の応神天皇段に

 『またはたのみやつこ(秦造)の祖、

 『あやのあたへ(漢直)の祖、

 また酒をかむ(醸む、口噛み酒の醸造)ことを知れる人、名はにほ(仁番)またの名をすすこりども(須須許理等)まいわたり(参渡り)来つ。』

 とある。

 これが、秦人を率いる弓月の君の一党で、以後この一族は野党として存在感を強めていく。

 いきなりだが、秦、という字を当ててはいるものの、秦の始皇帝末裔というのは、うそだろう。やまとのあやうじ(東漢氏)は、後漢の霊帝を祖とし、かわちのふみうじ(西文氏)は前漢の劉邦が祖だという。くだらのこにきし(百済王)のように、本当に百済の王族に発している氏族もいるが、そうそう、外国の王族ばかり渡来するというわけがない。本当に朝鮮の王族が渡来しているのをいいことに、外国の王朝を名乗って箔を付けてやろうという亡命者の知恵だろう。

 これが、秦氏、そして、秦氏を吸収した武家集団の生理にはあったとかんがえられる。つまり、本姓は不明、有利になるのなら、勢家の氏姓の仮冒(カボウ、他の姓を称すること)も働く。

 加藤清正は藤原道長の子孫を称し、前田利家は天神様の末裔で、柴田権六勝家さえ清和源氏を名乗っている。福島正則は、村の桶屋の息子だったはずだが、桓武平氏であり、清和源氏であり、藤原氏、と、一通り武家の筋目を僭称している。

 氏姓など借り物、実力があれば、後から実体がついてくる。

 こういうところも、いかにも秦の遺風に感じられるのだ。

 

 ということで、秦氏は始皇帝とは関係がない、その末裔を僭称している集団で、有り様は、弓月の君に率いられた、朝鮮農夫や、職人、ひとによっては官僚などが、雑多に入り混じったものだったのだろう。

 基本的に亡命民なのである。取るものも取りあえず飛び出してきただろうし、その時は、ひとまとめに舟に乗って、故国を後にしたのだろう。三韓征伐以来、倭国はどうも景気がいい、北九州程度なら、みまな(任那、日本の朝鮮領土)を介して人文や言語もなじみがある、いや、もしかしたら、両者は似通った言語を使っていた可能性もある。

 それやこれやで、移住のハードルが下がり、大挙してやって来た。

 とはいえ、もちろん、日本の人種を塗り替えるほどの規模だったとはかんがえられない。渡来人の総計など、歴史上のすべてを数えても、はたして、二十万人もいくかどうか。海北道中、玄界灘ルートは、相当移住の敷居は低かったはずだが、それでも、暮らす場所を変えるというのは、大きな決断だ。一方で、交易民は、気楽に海北道中を行き来し、一部は山陰や北陸にも足を、いや、舟を行き来させていた。販路として何度も彼我を往復している内に、移住を決断するものもいただろう。それやこれやをすべて合計すれば、歴史上、十万人以上、二十万人以下、何百年、千年や二千年という時間の幅で、という話である。

 だから、彼らが日本に与えた影響は、DNA的なものより、情報子、ミーム的なものだとかんがえた方がいい。農耕技術、あるいは米作、土木技術、絹織り、養蚕、牛馬の飼育

 そして、鉄製造。

 こうしたものが、日本の農村生活を組み立てた。

 こういうものを移植する段階で、はたうぢは、あづまえびすや、みちのくえみしの間で、影響力を強めた、そうかんがえてもいい。

 ここでまた、ミッシングリンクなのだ。

 結局、秦氏が、ひょうすべが、どのように関東武士団の成立に寄与し、そこにどの程度遺伝子(ミーム)をのこしたのか、つまびらかではない。

 しかし、いざ、関東武士団が成立した時、彼らが掲げたのは八幡神だ。

 なにもなかった、ということはなかろう。そもそも、清和源氏、源頼信(九六八─一〇四八)が河内源氏を開いた。頼信の子・頼義が、平直方(なおかた)から娘を娶り、鎌倉の地と、坂東平氏の勢力圏を譲り受けた。河内源氏が、関東に根拠地を得たのだ。

 そして、頼義は、河内国壺井や鎌倉に八幡宮を建て、八幡神を勧請した。ここに、河内源氏の氏神は八幡神となり、さらに彼は、入念にも嫡男義家に、八幡太郎の名を授けた。

 その上での、関東への入部である。

 これはつまり、当時の関東では、秦氏の勢力、八秦の神を崇める氏子たちが多く、彼らを懐柔するために、あらかじめ、八幡神を河内源氏の氏神とした上で、関東入りした、ということではないだろうか。

 この頃には、すでに、秦を氏姓とするものは、ほとんどいなくなっていた。彼らは、秦氏は、東国人にとって、鉄を入手する貴重なツテであり、それだけでも傘下に入る意味があり、彼らが各地の首長に氏姓を変更した、地名などをそのまま氏姓にした後も、鉄器の入手と普及の盛大を祈り、「八幡」を氏神にした、ということはかんがえられないだろうか。

 平安時代の鉄製農具、鉄のブレードを備える鋤鍬というのは、あんがいに普及していた、村には鍛冶がおり、そうしたブレードを鍛え直すこともあれば、もう使い物にならなくなったものを鉄資源として蹄鉄や鍋釜に鍛え直していた、というのが、最近の研究である。 

 十世紀に入る頃には、こうした鉄資源を交易で手に入れることができる、寺社や港で市が立つようになった。しかしそれまで、九世紀、八世紀の関東農民は、木製農具に接続する鉄の刃を夢見るような暮らしだっただろう。いや、末端の農民にそこまで向上心があったとも思えないから、集団を率いる首長クラスが、鉄を求めていた、ということだろうか。

 そんな彼らに、延暦年間、朗報がもたらされる。

 三十八年戦争ともいわれる、蝦夷との戦いが始まったのだ。これによって、戦争用の鉄器を製造すべく、常陸や下総で、大規模な国営製鉄所が建てられる。刀剣、鉄鏃、甲冑の小札・・こうしたものが大量に製造され、東北との戦争に投入された。茨城県石岡市鹿の子C遺跡は、特にその痕跡が顕著だ。

 『戸籍(こせき)や具注暦(ぐちゅうれき)など多数の漆紙文書(うるしがみもんじょ)が出土したことから「地下の正倉院」とよばれ,その具体的な職務内容が明らかになった遺跡です。多数の鍛冶工房跡(かじこうぼうあと)をはじめ掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や連房式竪穴遺構(れんぼうしきたてあないこう)などが確認され,鉄製の武器・武具,鉄滓(てっさい)などが多量に出土しました。奈良時代終わりころ,蝦夷征討(えぞせいとう)で使う武器・武具類の製造・修理を行うために,常陸国衙(こくが)に付属して急きょ設けられた官営の工房跡です。』  (茨城県教育財団文化財調査報告 第20集 鹿の子C遺跡)

 この鹿の子C遺跡を稼働させるために、中央から技術者たちが派遣されたという。当時の状況からかんがえて、渡来系の技術者が多くいたことだろう。

 (これじゃ)

 と、徐福が存命なら、目を輝かせたことだろう。

 (なにはともあれ、鉄器の製産を定着させるーー武具のあまりがあれば、それを回収して農具にすればよい)

 鉄器の考古学上の発見が乏しいのは、鉄というのは、リサイクルが利く。中古鉄を新鉄に混ぜて、もう一度鍛えてやればいい。だから、地中で分解される以上に、現役の鉄に紛れてしまう。

 兵主部の民も、一時は、鉄材を横流しーー刀剣や小札という形でーーしてもらったり、秘密裏に、遺品や中古武具を引き取るような真似をして、鉄器の調達に励んだことだろう。三十八年戦争が終わると(八一一年ほど)こうした国営製鉄所は、兵器から農具へ、転用される。

 合わせて、関東独自の「竪《たて》型炉」が開発され、関東各地で製鉄遺跡が急増する。

 開発と鉄が、

 軍事と農業が、

 一本の線で結ばれたのだ。

 これぞ、兵主部の業ーー軍神蚩尤の恵みだ。

 兵主神は、日本では、食糧生産の神としても崇められているのだ。

 農業も、技術である以上「武」に、軍事に貢献する。それはまた、逆もしかりなのだ。


 『兵主神社は、関東にもある。

 千葉県柏市に兵主八幡神社、剣神であるふつぬし命(経津主命)とほむたわけ命(誉田別命、応神天皇のこと)を祀るーー創建年代は不詳。』

 

 ちなみに柏市内では、奈良・平安時代を中心に、六十三もの古代製鉄遺跡が確認されている。

 

 

 

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