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9/11

山羊のままでいい


魔女が現れてから数日、ノアとレオニードの間の空気は、依然としてぎこちないままだった。互いに何を話せばいいのか分からず、必要な言葉だけを交わす日々が続いていた。ブラッシングの時間も、以前のような和やかさを取り戻せずにいた。それでも、水源問題という、二人の力を必要とする現実の前では、疑いを抱えたまま立ち止まっているわけにはいかなかった。


水源そのものを断続的に確保するには、山の奥にある古い水路を修復し、村まで水を安定して引く必要がある。長年放置されてきたその水路は、いくつもの箇所で崩れ、土砂に埋もれていた。修復には、ノアの力による作業だけでなく、隣国との調整や、両国の民をまとめる政治的な手腕が不可欠だった。この水路さえ復旧すれば、両国の民が水を奪い合う必要はなくなる。それは、単なる工事ではなく、長年続いてきた争いの根を、断つための試みでもあった。


「水路の工事について、隣国の代表と話をつけてきた。両国合同で、この水路を管理することで合意した」


レオニードは、淡々とそう報告した。ノアは驚いて顔を上げた。


「殿下が、直接交渉を?」


「俺の役目だ。それに、お前が両国の民を分け隔てなく助けているのを見て、向こうの代表も態度を軟化させた。お前の働きがなければ、まとまらなかった話だ」


その言葉には、以前のような刺々しさはなかった。それでも、どこか距離を保ったままの口調に、ノアは寂しさを覚えずにはいられなかった。互いに信じたい気持ちはあっても、まだそれを素直に口にできないでいる。そんなもどかしさが、二人の間に漂っていた。


それでも、水路の修復という共通の目的の前では、二人は自然と、以前のような連携を取り戻していった。指示を出すレオニードの言葉に、ノアは迷わず従い、ノアの提案に、レオニードは頷いて応じる。言葉数こそ少なかったが、そこには確かな信頼の名残があった。


働く二人の様子を、村人たちも、国境の向こうの民たちも、興味深そうに見守っていた。かつては睨み合っていたはずの両国の民が、今では同じ現場で、共に汗を流している。その光景そのものが、水源問題という共通の課題が、二つの国を少しずつ近づけている証だった。


工事の当日、老朽化した水路の中に入り、ノアは力を使って、崩れかけた壁を修復していった。薄暗い水路の中は、長年の土砂と湿気で、独特の臭いが漂っていた。土に埋もれた石組みを一つずつ整え直し、水の通り道を丁寧に確保していく。レオニードは外で、両国の作業員たちの指揮を執っていた。慣れない共同作業に戸惑う両国の民の間を取り持ち、時に厳しく、時に穏やかに、作業を進めていく。互いの役割を果たしながら、二人の連携は、これまでのどんな作業よりも噛み合っていた。


だが、作業も終盤に差し掛かった頃、突然、大きな地鳴りが響いた。


「崩れるぞ!」


誰かの叫び声と共に、水路の奥で、支えを失った岩盤が崩落し始めた。土煙が瞬く間に視界を覆い、悲鳴が飛び交う。轟音と共に、天井の一部が崩れ落ち、辺りは一瞬にして混乱に包まれた。作業をしていた者たちが、慌てて外へと駆け出す中、レオニードが、逃げ遅れた一人の作業員を助けようと、崩れかけた水路の中へと飛び込んでいった。


「殿下!」


ノアは、迷わずその後を追った。心臓が、耳の奥で激しく鳴っていた。崩れ落ちる岩の間を縫うように、力を振り絞って、崩落を食い止める。両手を高く掲げ、崩れ来る土砂を、目に見えない壁のように押し止める。頭上から降り注ぐ土砂を押し留めながら、作業員を外へと押し出し、最後に、瓦礫の下敷きになりかけたレオニードを、間一髪で引きずり出した。全身の力を使い果たし、ノアの膝が、崩れるように地面についた。


土埃の舞う中、ノアはレオニードを抱えたまま、その場に座り込んだ。心臓が、激しく脈打っていた。もし、少しでも判断が遅れていたら。そう考えるだけで、体の芯が凍りつくようだった。周囲では、助け出された作業員たちが、口々に無事を喜び合う声が響いていた。だが、ノアの耳には、それすらもぼんやりとしか届いてこなかった。


「殿下、ご無事ですか」


「……ああ」


レオニードの声は、いつになく掠れていた。無事だと分かっていても、ノアの手の震えは、なかなか収まらなかった。腕の中の温もりを、確かめるように、ノアは何度もレオニードの体に触れていた。


両国の作業員たちが、崩落現場の後片付けに追われる中、二人は少し離れた場所で、ようやく人心地をついていた。周囲の喧騒が、遠くに感じられるほど、ノアの意識は、ただ目の前のレオニードにだけ向けられていた。


腕の中の温もりを確かめながら、ノアはふと気づいた。これまでずっと、心のどこかで、呪いが解けることを当たり前のように思い描いていた。人間に戻ったレオニードと、いつか対等に並び立つ日を、漠然と望んでいた。だが、たった今、あと少しで、その「いつか」ごと失うところだった。呪いが解けるかどうかも、王子に戻れるかどうかも、この瞬間には、何の意味も持たなかった。ただ、この人が生きていて、腕の中にいる。それだけで、十分すぎるほどだった。


「もう、人間に戻らなくていいです」


気がつけば、そう口にしていた。心の奥底から、堰を切ったように言葉が溢れ出てくる。呪いが解けることを願い続けてきたはずの自分が、今、初めてそれを手放していた。


「王子じゃなくなっても構いません。一生、山羊のままでいいから」


ノアの声は、震えていた。それでも、止まらなかった。これまで積み重ねてきた疑いも、迷いも、恐れも、この瞬間には、もう入り込む隙間がなかった。


「だから、僕のそばにいてください」


これまで積み重ねてきた疑いも、迷いも、その瞬間、すべて吹き飛んでいた。ただ、目の前のこの人を失いたくない。その一心だった。役に立つとか、必要とされるとか、そんな計算はどこにもなかった。ただ純粋に、この人を失いたくないという、剥き出しの気持ちだけがあった。


レオニードは、しばらく黙って、ノアの顔を見つめていた。埃にまみれたその顔に、驚きと、それ以上の何かが滲んでいた。何か言おうとして、口を開きかけては、また閉じる。そんな仕草を、何度か繰り返していた。周囲では、まだ作業員たちの安堵の声が響いていたが、その喧騒すら、二人の間には届いていないようだった。


「ありがとう」


ようやく絞り出すように、レオニードはそう口にした。それから、ゆっくりと顔を近づけ、ノアの額に、そっと口づけを落とした。ふわりとした毛並みの感触と、思いのほか柔らかな温もりが、額から伝わってくる。


ノアは、驚いて息を呑んだ。何が起きたのか、一瞬理解が追いつかなかった。だが、じっとノアを見つめるレオニードの瞳の奥に、これまで見たことのない、柔らかな光が宿っているのが分かった。


これこそが、真実の愛だった。損得も、疑いも、打算も、何もない。ただ、相手の無事を願う、まっすぐな想い。魔女の言葉によって刻まれた疑念など、この瞬間には、跡形もなく消え去っていた。


それでも、レオニードの体は、山羊の姿のままだった。


その夜、離れた場所で作業の後片付けをしていたノアとレオニードの前に、再び、あの魔女が姿を現した。夕闇に紛れるように、いつの間にかそこに立っていた。崩落現場の熱気もまだ冷めやらぬ中、その姿だけが、周囲から浮き上がって見えた。


「あら、随分と情熱的な告白だったこと」


からかうような声だった。ノアは、警戒しながら魔女を見据えた。どこから見ていたのか、あの瞬間のやり取りを、すべて知っているようだった。


「俺様のくせに山羊になるなんて、本当に興ざめ」


魔女は、そう吐き捨てると、値踏みするような視線をレオニードへと向けた。その口調には、これまでのような余裕が、次第に薄れていくのが感じられた。


「まさか、本当に……」


その呟きには、これまでの余裕とは違う、何かに動揺したような響きがあった。まるで、想定していなかった展開に、動揺を隠しきれずにいるかのようだった。だが、それも一瞬のことで、魔女はすぐに、笑い声を残して姿を消した。取り繕うような、どこか慌ただしい消え方だった。


レオニードは、その間、ずっと平然としていた。少なくとも、そう見えた。動じることなく、魔女の言葉を黙って受け流しているように、ノアの目には映っていた。だが、その耳の先が、わずかに強張っていることに、ノアは気づいていた。何かをこらえるように、じっと動かない耳の角度が、レオニードの本当の心情を、静かに物語っていた。


だが、魔女の姿が完全に消え去った瞬間、レオニードの表情から、力が抜け落ちていった。まるで、それまで無理に保っていた強がりの糸が、一気に切れてしまったかのようだった。


「…………ノア」


「はい」


「やはり、ライオンの方がよかったと思うか?」


その声は、これまで聞いたことのないほど、弱々しかった。魔女の一言が、ずっと気にしていたあの傷を、また刺したのだろう。あの夜会での出来事から、ずっと消えずに残り続けていた傷が、こんな瞬間にまで、レオニードを苦しめている。強がりでどうにか保ってきた自尊心が、たった一言の悪意で、簡単に崩れてしまうことに、ノアは胸を締め付けられる思いがした。


「殿下」


ノアは、静かに名前を呼んだ。


「僕は、殿下に出会う前から、殿下がどんな姿だったかを知りません。ライオンのような殿下も、人間の殿下も、僕は見たことがないんです」


「……それは」


「僕が知っているのは、この姿の殿下だけです。横暴で、不器用で、それでいて誰よりも国を思っている殿下。僕にとっての殿下は、最初から、この姿の殿下しかいません」


言葉にしながら、ノアは自分の中で、その想いが揺るぎないものだと、改めて実感していた。かつての美しかった姿も、令嬢たちに求められていたはずの姿も、ノアには関係のないことだった。今、目の前にいるこの人だけが、ノアの知る、ただ一人のレオニードだった。


ノアは、答える代わりに、静かにレオニードを抱きしめた。ふわりとした白い毛並みに、顔を埋める。土と汗の混じった匂いの奥に、確かにこの人の温もりがあった。腕の中で、レオニードの体が、わずかに震えているのが伝わってきた。


「殿下は、殿下です。ライオンでも、人間でも、山羊でも、関係ありません」


その言葉を、ノアは一言一言、噛みしめるように口にした。誰かに聞かせるためではなく、レオニード自身に、そして自分自身にも、確かめさせるように。


しばらくの間、二人はそのまま、動かなかった。レオニードの体から、少しずつ、強張りが解けていくのが分かった。それでも、待っていたはずの奇跡は、起こらなかった。


呪いは、解けなかった。


「……どうして」


ノアは、思わず呟いた。真実の愛のはずだった。損得も、疑いも、打算もない、まっすぐな想いだったはずだ。それなのに、なぜ。


レオニードもまた、戸惑ったように、自分の体を見下ろしていた。白い毛並みは、依然としてそこにあった。指先で、確かめるように自分の毛に触れ、それから、困惑した様子でノアを見た。


「分からない。俺にも、分からない」


その声には、失望よりも、深い当惑が滲んでいた。二人の間に、これまでとは違う種類の沈黙が流れた。何かが足りない。だが、それが何なのか、二人にはまだ、分からなかった。信じ合えたはずなのに、なぜ結果が伴わないのか。その疑問だけが、答えのないまま、二人の間に残された。


夜風が、崩落現場の乾いた土の匂いを運んでくる。水路の修復という大きな課題を一つ乗り越えたはずなのに、二人の間には、まだ解けない謎が、静かに横たわっていた。それでも、先ほどまでの重苦しい沈黙とは、明らかに違う種類の静けさだった。疑いではなく、戸惑い。二人はその夜、寄り添うようにして、しばらくの間、言葉もなくそこに座っていた。

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