魔女は一番痛いところを知っている
あの夜以来、ノアとレオニードの間には、埋まらない溝ができていた。会話は必要最低限に留まり、ブラッシングの時間も、以前のような穏やかさを失っていた。井戸を修復する仕事にも、以前ほどの熱心さは戻らず、ノアは村人たちと接するときだけ、どうにか普段通りの自分を取り繕っていた。夜になり、ブラシを手に取ろうとしても、部屋の空気は重く、以前のような静かな心地よさは、もうそこにはなかった。
レオニードもまた、口数が少なくなっていた。何かを言いかけては、途中で言葉を飲み込む。そんな様子を、ノアは何度か見かけていた。それでも、あの夜の言葉を撤回する勇気は、どちらにもなかった。
その日、ノアは村の外れまで足を延ばし、井戸端で遠くの畑に水を届けていた。レオニードとは、朝から一言も言葉を交わしていなかった。それでも、少し離れた場所で、レオニードもまた見回りのために村を訪れていた。互いに気まずさを抱えたまま、同じ井戸のそばで、言葉少なに過ごしていたときのことだった。
そんなある日の夕暮れ、村はずれの井戸のそばに、見知らぬ女の姿があった。
夕日を背に立つその姿は、どこか現実離れした雰囲気を纏っていた。黒いローブを纏い、口元にだけ薄い笑みを浮かべている。ノアには、それが誰なのか分からなかった。だが、隣に立つレオニードの体が、目に見えて強張るのが分かった。
「……お前」
レオニードの声には、隠しきれない敵意が滲んでいた。ノアはその反応で、ようやく察した。この女こそが、レオニードに呪いをかけた、あの魔女なのだ。周囲の空気が、ひやりと冷たくなったような気がした。
「久しぶりね、殿下」
からかうような声だった。レオニードは、警戒するように身構えたが、魔女はそれを気にする様子もなく、悠然と歩み寄ってきた。ノアもまた、思わず身構えた。呪いをかけた張本人を目にするのは、これが初めてだった。噂に聞いていた以上の、底知れない威圧感があった。
「その子、随分と頑張っているじゃない。井戸を掘り、畑を潤し、村人たちに慕われて。まるで、あなたのために生きているみたいね」
魔女は、そう言いながら、値踏みするような目で二人を交互に眺めた。楽しくて仕方ないとでも言うように、口の端が小さく吊り上がっている。
「何が言いたい」
レオニードの声には、警戒が滲んでいた。
「あら、簡単なことよ」
魔女は、くすくすと笑いながら、レオニードに一歩近づいた。円らな瞳を覗き込むように、顔を近づける。
「その子が、あなたを愛していると思っているの?」
その一言が、レオニードの胸に、鋭く突き刺さった。同時に、戸惑いも大きかった。愛という言葉を、これまで自分の中で、はっきりと意識したことはなかった。ただ、ノアのそばにいると心が凪ぐことや、あの夜の一言が忘れられないことは知っていた。それを「愛」と呼ぶのかどうか、レオニード自身、まだ答えを持っていなかった。名付けられていなかったはずの感情に、いきなり刃を突きつけられたような感覚だった。
「その子はね、優しいだけよ。誰にでも優しくする質なんでしょう。あなただから、というわけではないと思うけれど」
もっともらしい口調で、魔女はそう続けた。真実かどうかなど、この魔女にとってはどうでもいいことなのだろう。ただ、相手の心の一番柔らかいところを見つけ、そこに小さな棘を刺していく。それが、この魔女のやり方なのだと、レオニードは今さらながら思い知った。
レオニードは、何も言い返せなかった。あの夜、ノアが口にした「役に立てるから、そばにいる」という言葉が、頭の中で蘇る。あれは、本心だったのではないか。俺を哀れんでいるだけなのではないか。そんな疑念が、レオニードの中で、音もなく広がっていった。一度芽生えた疑いは、次から次へと、これまでの穏やかな記憶にまで影を落としていった。あのブラッシングの時間も、ただの同情だったのかもしれない。あの夜の「殿下に触れられますから」という言葉さえ、今となっては、どんな意味を持っていたのか分からなくなっていた。
魔女は、満足そうに視線をノアへと移した。値踏みするような目で、ノアの全身を眺め回す。
「そういうあなたはどう? 王子があなたを欲しがる理由、分かっているのでしょう?」
ノアは、答えられなかった。
「あなたに愛されれば、彼は人間に戻れるのよ。それだけの話じゃない」
魔女は、まるで当然のことを告げるかのように、淡々とそう言った。その口調が、かえってノアの心を深くえぐった。
その言葉が、ノアの心の柔らかい部分に、深く食い込んだ。
——やっぱり、僕自身が欲しいんじゃない。
呪いを解くための、ただの手段。都合のいい存在。これまで積み重ねてきたはずの時間が、一瞬にして色を失っていくような感覚だった。ブラッシングの時間も、あの夜の告白も、全部、呪いを解くための布石だったのではないか。そう考えると、胸の奥が、冷たく凍りついていくようだった。
これまでも、ノアは自分に価値があるとは思えずにいた。それでも、レオニードだけは違うと、心のどこかで信じかけていた。その小さな希望が、たった一言で、脆く崩れ落ちていくのが分かった。役に立つから求められる。それだけの関係。前世でも、今世でも、ノアがずっと繰り返してきた構図と、何一つ変わっていないのかもしれない。
顔を上げると、レオニードと目が合った。だが、その視線もまた、これまでとは違う色を帯びていた。疑いと、戸惑いと、それを隠そうとする硬い表情。互いに何を考えているのか、探り合うような、居心地の悪い沈黙が流れた。
「面白いこと。二人とも、そんな顔をして」
魔女は、愉快そうにそう言うと、二人の顔を交互に眺めた。まるで、自分の仕込んだ種が、確かに芽吹いたことを確認するかのような、満足げな笑みだった。
「せいぜい、疑い続けるといいわ」
それだけ言い残すと、笑い声を残して、夜の闇へと姿を消した。
残されたノアとレオニードの間には、これまで以上に重い沈黙が流れていた。互いに顔を見合わせることもできず、二人はそれぞれ、自分の中に生まれた疑念を、抱えたまま立ち尽くしていた。
役に立つためだけの関係なのか。呪いを解くためだけの存在なのか。
かつて確かにあったはずの温かい時間が、今は、疑いという薄い氷の下に沈んでいくようだった。あの夜のブラッシングの時間も、あの告白の瞬間も、今となっては、どちらが本物だったのか、二人ともうまく判断がつかなくなっていた。
「……戻る」
レオニードは、それだけ言うと、ノアに背を向けて歩き出した。呼び止める言葉を、ノアは持たなかった。何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。「疑わないでください」と言ったところで、それすらも、都合のいい言葉に聞こえてしまうかもしれない。そう思うと、口を開くことすらできなかった。
夜風が、乾いた大地を静かに吹き抜けていった。二人の間には、これまでで最も深い距離が、横たわっていた。井戸端に取り残されたノアは、しばらくの間、その場から動くことができなかった。魔女の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
役に立つから求められる。呪いを解く道具として必要とされる。そのどちらも、これまでのノアが慣れ親しんできた関係性だった。だからこそ、余計に否定しきれない自分がいることが、ノアには何より辛かった。信じたいと思う気持ちと、信じることを恐れる気持ちが、胸の中でせめぎ合ったまま、答えの出ない夜が過ぎていった。
空にはいつの間にか、星が瞬き始めていた。乾いた大地の上に広がる満天の星々は、いつもと変わらない美しさで輝いていたが、その景色を、素直な気持ちで見上げることは、もうできそうになかった。




