王子の隣に立つ資格
辺境の地に着いてまず目にしたのは、乾いた大地だった。見渡す限り、緑の乏しい荒野が広がっている。街道を進むほどに、井戸の周りに集まる人々の姿が目立つようになった。誰もが、桶を手に、順番を待つように列をなしている。王都で聞いていた話とは、まるで違う光景だった。
隣国との争いの原因は、長らく領土問題だと言われてきた。だが実際に足を運んでみると、事情はもっと切実なものだった。長引く干ばつにより、この一帯の水源はひどく枯渇していた。国境の遊牧民たちは、水を求めてやむを得ず越境を繰り返し、それが小競り合いの火種になっていたのだ。
「王都では、単なる領土争いとしか伝えられていない」
レオニードは、乾いた井戸のそばで、苦い顔をしてそう呟いた。日差しを避けるため、白い毛並みには薄布がかけられていたが、それでも、この土地の厳しさから逃れることはできなかった。
「本当の原因は、水だ。それを知らないまま、兵を送ることばかりが議論されている。誰も、現地に足を運んで確かめようとはしない」
その声には、王都の対応への苛立ちが滲んでいた。姿を変えられて以来、辺境行きを命じられたレオニードにとって、この地の現実を目の当たりにすることは、他人事ではなかったのだろう。王都の玉座からは決して見えない、この乾いた大地の現実を、身をもって知ることになったのだ。
ノアは、その話を聞きながら、ふと胸に引っかかるものを感じた。街道の混乱や物流の停滞は、この水源不足によって引き起こされていたものだったのだ。あの夜、家族を乗せた馬車が事故に遭ったのも、荒れた街道の整備が行き届いていなかったことと、無縁ではなかったのかもしれない。物流を管理する人手が、国境の混乱に割かれ、本来向けられるべき場所に行き届いていなかった。そんな話を、村の古老から聞かされたとき、ノアは思わず言葉を失った。
家族の死。女神の使命。辺境への赴任。国を平和にすること。
それらが、一本の線でつながっていくのを、ノアは静かに感じていた。偶然だと片付けるには、あまりにも出来すぎているように思えた。もしかすると、自分がここに立っていること自体に、何か大きな意味があるのかもしれない。
もし、この地の水源問題が早くに解決されていたら。国境の混乱がなければ、あの夜、家族の乗った馬車が事故に遭うこともなかったかもしれない。そう考えると、ノアの中で、これまで漠然としていた「国を平和に導く」という使命が、初めて具体的な輪郭を持ち始めた。これは、遠い誰かのための使命ではない。自分自身の過去とも、地続きの出来事だったのだ。
だとすれば、なおのこと、力を尽くさなければならなかった。
翌日から、ノアは能力を使って、村の人々を助け始めた。ただし、自国側の民だけを助けるつもりはなかった。水を求めているのは、この国の民も、国境の向こうの遊牧民たちも同じだった。自国側だけを潤せば、いずれ水を求める隣国の民が、再びこの地に押し寄せてくることになる。それでは、根本的な解決にはならない。
そう考えたノアは、国境の両側に分け隔てなく、井戸を掘り、水を届けて回った。水の枯れた井戸に手をかざせば、澄んだ水が滾々と湧き出した。怪我や病に苦しむ者がいれば、国籍を問わず、その傷を癒した。作物の育たなくなった畑には、豊かな実りをもたらした。乾いた大地に緑が戻っていく様子を、村人たちも、国境の向こうの遊牧民たちも、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「ありがとうございます、補佐官様」
「あなたのおかげで、村が救われました」
村人たちは、次第にノアを慕うようになっていった。最初は遠巻きに見ていた子どもたちも、今ではノアの姿を見つけると、駆け寄ってくるようになっていた。水を汲みに来た老婆は、ノアの手を取って何度も頭を下げた。畑を耕す青年たちは、ノアが通りかかるたびに、大きく手を振って迎えた。
国境の向こうの遊牧民たちの態度も、少しずつ変わっていった。これまでは越境するたびに睨み合っていた両国の民が、井戸端で言葉を交わすようになり、時には水の分け方について、共に話し合う姿も見られるようになった。水さえ足りていれば、争う理由はなかったのだと、ノアは改めて実感した。
役に立つことは、これまでも当たり前のことだった。だが、こんな風に、心からの感謝を向けられたことは、ノアにとって初めての経験だった。誰かのために働くことが、こんなにも温かい気持ちを連れてくるのだと、ノアはこの地で初めて知った。
夕暮れ時、井戸端で水を汲む人々の輪の中に、ノアが混じっていることも珍しくなくなった。誰かが差し出す果実を受け取り、他愛のない世間話に耳を傾ける。そんな時間の中で、ノアは少しずつ、自分の居場所というものの手触りを、確かめ始めていた。
レオニードは、そんなノアの姿を、どこか誇らしげに見守っていた。村の広場で、子どもたちに囲まれるノアの様子を、離れた場所からじっと眺めていることもあった。
「お前は、俺が思っていた以上の人間だな」
ぽつりと漏らされたその一言に、ノアの胸が温かくなった。役に立てていることが、これほど素直に喜ばしく感じられたのは、初めてのことだった。これまでは、役に立つことは、自分がそこにいるための条件だった。だが今は、レオニードが自分のことを、誇らしく思ってくれている。そのこと自体が、ノアにとって、何物にも代えがたい喜びだった。
だが、その平穏は、長くは続かなかった。
視察のために王都からやってきた貴族の一団が、村を訪れた際のことだった。彼らは、辺境の惨状を確認しに来たというよりも、レオニードの様子を探りに来たようだった。井戸を修復するノアの様子を目にした一人が、隣にいた仲間に、聞こえよがしにこう言った。
「所詮は男爵家の五男だろう。山羊殿下の世話係が、随分と持て囃されたものだな」
くすくすと笑い合う声が、続いた。
「本当に、あれほどの力があるのか? たまたま運が良かっただけではないのか」
「いずれにせよ、しょせん従者上がりだ」
「殿下もお人が悪い。あんな者を、わざわざ補佐官などと呼んでやるとはな」
くすくすと笑い合う声が、続いた。彼らは、ノアに聞こえているとは思っていないのか、それとも聞こえていても構わないと思っているのか、悪びれる様子もなく、話を続けていた。
その言葉は、風に乗って、ノアの耳にもはっきりと届いた。
一瞬で、ノアの心は、あの離宮に来る前の日々へと引き戻された。使用人同然の扱いを受けていた日々。役に立たなければ価値がないと思い込んでいた日々。積み上げてきたはずのものが、たった一言で、脆くも崩れ去っていくような感覚だった。村人たちがどれほど感謝の言葉をかけてくれても、貴族という「本物」の身分を持つ者たちの前では、自分など所詮その程度の存在なのだと、心のどこかで思い知らされたような気がした。
その夜、レオニードの部屋で、いつものようにブラシを手に取ったノアに、レオニードが不意にこう言った。
「昼間、貴族たちがお前について何か言っていたと、護衛から報告を受けた」
その場にいなかったはずのレオニードが、事の次第を知っていることに、ノアは少し驚いた。だがすぐに、村を見回っていた護衛の誰かが、耳にした話を伝えたのだろうと察しがついた。
「ノア。これからも、ずっと俺のそばにいろ」
まっすぐな言葉だった。これまでのどんな言葉よりも、明確な意志が込められていた。窓の外には、辺境の乾いた大地が、月明かりに照らされて静かに広がっていた。本来なら、ノアの胸を温かく満たすはずの言葉だった。
だが、ノアの口から出たのは、想いとは裏腹な言葉だった。
「……それは、できません」
レオニードの表情が、はっきりと変わった。
「何を言っている」
「僕は、殿下がおっしゃるような人間ではありません。所詮、男爵家の五男でしかないんです。そんな人間が、殿下のおそばにずっといるなんて、許されるはずがありません」
言葉にすればするほど、自分でもどうしようもなく、昔の思考の癖に引きずり込まれていくのが分かった。それでも、止めることができなかった。まるで、長年かけて自分に言い聞かせてきた言葉が、勝手に口をついて出てくるかのようだった。
「あんな貴族の戯言を、真に受けているのか」
「戯言ではありません。事実です」
ノアの声は、自分でも驚くほど頑なだった。
「僕がここにいられるのは、殿下のお役に立てるからです。それ以上の意味など、あるはずがありません」
「今、何と言った」
レオニードの声が、低く鋭くなった。
「お前は今、俺がこれまで言ってきたことを、全部なかったことにしようとしているんだぞ」
「そんなつもりは……」
「あるだろう。役に立てるから、そばにいる。それ以上の意味はない。それは、俺がお前を、お前自身として求めていることを、丸ごと否定する言葉だ」
レオニードの声には、明らかな怒りと、それ以上に深い困惑が滲んでいた。
「あの貴族の言葉一つで、お前は、これまでのことを全部、なかったことにするのか。俺が井戸のそばで見てきたお前の働きも、村人たちの笑顔も、あの夜お前が話してくれた使命のことも、全部、あの一言の前では意味を持たないというのか」
「そうは言っていません」
「言っているのと同じだ」
レオニードの蹄が、苛立たしげに床を叩いた。それでも、その声の奥には、怒りだけでなく、傷ついたような響きが確かに混じっていた。
レオニードは、しばらく黙り込んだあと、静かに、それでいて鋭く言い放った。
「それは、この間、俺が言ったこととは、まるで違う話だな」
「……」
「一緒に守ると言った。お前もだと、はっきり言ったはずだ。それを、今になって、なかったことにするつもりか」
ノアは、何も言い返せなかった。頭では、レオニードの言葉が正しいと分かっている。それでも、心の奥底に染み付いた思い込みは、そう簡単には拭えなかった。長年かけて自分に刻み込んできた「役に立たなければ価値がない」という考えは、たった一つの温かい言葉で、簡単に消えてくれるものではなかった。
「殿下には、ご理解いただけないと思います」
その一言を最後に、ノアは静かに一礼して、部屋を出た。
扉の向こうで、レオニードが何か言いかけたのが分かった。「待て」という声が、途切れがちに聞こえた気がした。だが、それを聞く勇気は、ノアにはなかった。振り返れば、また心が揺らいでしまう。今は、この場を離れることしかできなかった。
廊下を歩きながら、ノアは自分の心が、二つに引き裂かれていくのを感じていた。レオニードのそばにいたいという気持ちと、そんな資格は自分にはないという思い込みが、互いに譲らないまま、ノアの中でせめぎ合っていた。
自室に戻り、ノアは寝台に座り込んだ。あの貴族の一言が、何度も頭の中で繰り返される。「所詮は男爵家の五男」「山羊殿下の世話係」。その言葉たちは、ノアがこれまで積み重ねてきたものを、簡単に切り捨てていくようだった。積み上げてきた村人たちの笑顔も、レオニードから向けられた言葉も、あの一言の前では、まるで意味のないもののように思えてしまう。それがどれほど理不尽なことか、頭では分かっているつもりだった。
だが、本当に切り捨てられるべきなのは、あの言葉の方なのかもしれない。頭の片隅で、そんな声もした。それでも、長年かけて染み付いた思考の癖は、そう簡単には拭えなかった。役に立つことでしか自分の存在を認められなかった年月は、たった数か月の幸福な日々よりも、はるかに長く、深く、ノアの中に根を張っていた。
窓の外には、乾いた大地が、月明かりの下に静かに広がっていた。この地に安らぎが戻る日は、まだ遠いように、ノアには感じられた。そして、自分とレオニードの間に生まれてしまった溝もまた、簡単には埋まらないもののように思えた。




