一緒に守っていこう
あの夜以来、二人の間には、以前とは違う空気が流れるようになっていた。二人とも、あの夜のことを、それ以上口にすることはなかった。それでも、レオニードの視線が、以前よりも長く自分に留まっていることに、ノアは気づいていた。何気ない仕草の一つひとつに、これまでとは違う温度が混じっているような気がした。
ノアもまた、以前とは違う自分に戸惑っていた。役に立つこと以外に、自分がここにいる理由を見つけられずにいたはずなのに、今は、ただレオニードのそばにいるだけで、心が満たされるような感覚を覚えることがあった。それが何を意味するのか、まだ深く考える勇気は持てなかった。名前をつけてしまえば、何かが変わってしまうような、そんな漠然とした怖さがあったからだ。
その日の夜、ブラッシングを終えたあと、ノアはふと、これまで誰にも言えなかったことを口にした。誰かに聞いてほしいと思ったのか、それとも、これ以上隠しておくことに耐えられなくなったのか、自分でもよく分からなかった。
「殿下。実は、僕には、生まれる前に女神から告げられたことがあるんです」
レオニードは、驚いた様子もなく、静かにノアの言葉を待った。その落ち着いた態度に、ノアは少しだけ勇気づけられた。
「この国を平和に導いてほしい、と言われました。同時に、なんでもできるという力も授かりました」
「……それが、あの日の力か」
「はい」
ノアは頷き、続けた。声が、次第に小さくなっていく。
「でも僕には、無理です。国を平和に導くなんて、そんな大それたこと、五男の僕にできるはずがありません。力があるからといって、それだけの力量が僕にあるとは思えないんです」
長年抱えてきた重荷を、ようやく言葉にできた気がした。同時に、笑われるのではないか、呆れられるのではないかという不安が、胸の奥をちくりと刺した。これまで誰にも話したことのない秘密だった。話してしまえば、荷が重すぎると呆れられるかもしれない。それでも、ノアはもう、この重荷を一人で抱え続けることに、限界を感じ始めていた。
だが、レオニードは笑わなかった。
疑いもしなかった。
ただ、静かにノアを見つめたまま、こう言った。
「なら、一緒に守ればいい」
あまりにも自然な口調だった。まるで、それが特別な決意でも何でもなく、当たり前のことだと言わんばかりだった。
「……国を?」
思わず、ノアは聞き返した。それ以外に、何と答えていいのか分からなかった。
「国も」
レオニードは、まっすぐにノアを見つめたまま、続けた。
「お前もだ」
その一言に、ノアは息を呑んだ。国を守るという大きな使命の隣に、自分自身の名前が並べられたことに、うまく現実感が持てなかった。誰かと共に何かを背負うということが、これまでのノアには、想像すらしたことのない感覚だった。
「一人で背負う必要はない。俺が、共に立つ」
レオニードの声には、迷いがなかった。まるで、それが当然のことであるかのように、淡々と、それでいて力強く告げられた言葉だった。
「本気で、おっしゃっているのですか」
「俺が、冗談でこんなことを言うと思うか」
レオニードは、少し呆れたようにそう返した。だがその表情には、確かな真剣さが滲んでいた。ノアはしばらく、言葉を失ったまま、ただレオニードの顔を見つめていた。
「お前は、自分にできることの大きさを、いつも見誤る。屋根を直し、庭を蘇らせ、それでも『これくらいしかできません』と言う。国を平和に導くことも、きっと同じだ。お前が思っているよりも、お前にはずっと多くのことができる」
その言葉に、ノアの胸が、じんと熱くなった。誰かにそんな風に言ってもらえたのは、生まれて初めてのことだった。前世でも、今世でも、ノアの力は当たり前のものとして消費され、称えられることはあっても、信じられることはなかった。
「それに」
レオニードは、少し声のトーンを落として続けた。
「一人で背負わせるつもりは、最初からない。俺も、この国の王子だ。お前一人に任せて、俺が何もしないわけがないだろう」
その言い方には、これまでにない優しさが滲んでいた。ノアは、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
数日後、レオニードは正式に、ノアを自分の補佐役として辺境へ連れていくことを決めた。単なる従者としてではなく、共に国境の情勢に当たる者として。王家の書状には、これまでの「従者」という肩書きではなく、「補佐官」という新しい役職が記されていた。
その知らせを受けたとき、ノアの中には、これまで感じたことのない感情が湧き上がった。
初めて、必要とされている。
これまでは、役に立てるから、そこにいることを許されてきた。役目を果たせなくなれば、いつでも取り替えの利く存在だった。だが今度は違う。レオニードは、ノアという人間そのものを、必要だと言ってくれた。役目のためではなく、ノア自身のために。
肩書きの上では「補佐官」という言葉に置き換わっただけかもしれない。それでも、その一枚の書状が、ノアにとってはこれまでの人生のどんな評価よりも、重く、そして温かいものに感じられた。
嬉しさで、胸がいっぱいになった。誰かに、こんな風に求められる日が来るとは、思ってもみなかった。
だが同時に、別の声が、心の奥底から囁いてきた。
——こんな場所に、自分がいていいはずがない。
男爵家の五男。使用人上がりの従者。そんな自分が、王子の隣に立ち、国の未来に関わる。そんなことが、本当に許されるのだろうか。心の声が大きくなっていった。まるで、幸せを感じることそのものが、何か間違ったことであるかのように。
嬉しいのに、怖い。
その矛盾した感情を、ノアはどう扱えばいいのか分からなかった。せっかく差し出された手を、素直に取ることさえ、ノアにはまだ難しかった。喜びの分だけ、失うことへの恐れも大きくなる。もし自分が期待に応えられなかったら。もし、この場所にふさわしくないと分かってしまったら。そんな考えが、次々と胸をよぎった。
これまでのノアにとって、期待とは、応えられなければ失望に変わるものだった。工場でも、男爵家でも、期待に応え続けることでしか、その場所にいることを許されなかった。だから、大きな期待を向けられるほど、心のどこかで身構えてしまう。喜びよりも先に、いつか失望させてしまうかもしれないという恐れが、頭をもたげてくるのだった。
窓の外には、辺境へと続く長い街道が、静かに横たわっていた。その先に何が待っているのか、ノアにはまだ、想像もつかなかった。
その夜、ノアはなかなか寝つけなかった。嬉しさと恐れが、交互に胸の中を巡っていた。レオニードの「お前もだ」という一言が、何度も頭の中で繰り返される。あの言葉を、素直に受け取ってもいいのだろうか。それとも、いつか失望させてしまうことを恐れて、今のうちに身を引くべきなのだろうか。
答えの出ないまま、ノアは暗い天井をじっと見つめていた。窓の外では、辺境へと続く道の先に、静かな夜が広がっていた。




