ライオンじゃなくてごめんね
ブラッシングの時間は、いつしか二人にとって、当たり前の日課になっていた。夕食を終えたあと、レオニードが何も言わずに椅子に座れば、ノアは自然とブラシを手に取る。それだけで、二人の間には、言葉のいらないやり取りが生まれていた。
以前のように、注文が飛んでくることも少なくなった。代わりに、ぽつりぽつりと、レオニードが日中の出来事を口にするようになっていた。国境の情勢や、届いた文書の内容、時には他愛のない世間話。ノアはそれを、ただ静かに聞くのが好きだった。
その夜も、ノアは静かにブラシを動かしていた。窓の外はすっかり暗くなり、灯りの下で、レオニードの白い毛並みが淡く光っている。会話らしい会話はなかったが、以前のような刺々しさは、もうそこにはなかった。時折、レオニードが小さく息をつく音だけが、静かな部屋に響いていた。
「……あの夜会の話は、聞いているか」
不意に、レオニードがそう切り出した。ノアは手を止めずに、静かに答えた。
「真実の愛を見つける夜会、でしょうか」
「そうだ」
ノアがここへ来る、まさにその日に開かれた夜会だった。その帰り道に家族を失ったことを思うと、複雑な気持ちにならないわけではなかった。それでも、ノアは黙って続きを待った。
レオニードは、どこか投げやりな口調で続けた。
「国じゅうから令嬢が集まった。誰もが俺の伴侶の座を狙っていたはずだった。だが、この姿を見た途端、誰一人として近づこうともしなかった」
淡々とした語り口だったが、その奥に、何か凍りついたようなものが滲んでいるのを、ノアは感じ取った。
「一人だけ、笑った令嬢がいてな」
「……」
「『ライオンみたいにかっこよかったら、まだ考えたんだけどな』と言われた」
レオニードは、そこで小さく笑った。
「くだらん話だ」
だが、その笑い方には、どこか無理をしているような響きがあった。目は少しも笑っていなかった。ノアは黙って、ブラシを動かし続けた。何か言葉をかけたい気持ちはあったが、うまい言葉が見つからなかった。
くだらない話だと、レオニード自身も言っている。それなのに、なぜわざわざ、この話を持ち出したのだろう。ノアは、その疑問を胸の内にしまいながら、手だけを動かし続けた。
沈黙が、しばらく続いた。
「……まあ、山羊よりはライオンの方が、マシだろうな」
呟くように、レオニードはそう漏らした。独り言のような、それでいて、誰かに聞いてほしいような声だった。
ノアの手が、思わず止まった。
その一言で、ノアは初めて理解した。この人は、ずっと傷ついていたのだ。誰にも見せず、笑い話のように扱いながら、心のどこかで、あの一言をずっと引きずっている。強がりの下に隠された本音を、たった今、初めて垣間見た気がした。
これまでノアが見てきたレオニードは、横柄で、我儘で、それでいて、誰よりも王子であろうとしている人だった。だが今、目の前にいるのは、たった一言の心無い言葉に、今も傷ついたままの、一人の人間だった。誰よりも美しいと言われ続けてきたからこそ、その美しさを失ったことが、これほどまでに深い傷になっているのかもしれない。
自分にも、似たような経験がある。役に立つこと以外に価値がないと思い込んできた日々。誰かの何気ない一言が、何年経っても消えない棘になることを、ノアはよく知っていた。だからこそ、この人の抱える痛みが、他人事とは思えなかった。
「僕は、山羊でよかったと思います」
気がつけば、そう口にしていた。自分でも、なぜそんな言葉が出てきたのか、うまく説明できなかった。ただ、目の前で傷ついているこの人に、何かを伝えたかった。
レオニードが、驚いたように顔を上げた。長い耳がぴくりと動き、円らな瞳が、まっすぐにノアを見つめている。
「……なぜだ」
その問いに、ノアは少し考えてから、静かに答えた。手にしたブラシを、ぎゅっと握りしめる。
「殿下に、触れられますから」
言ってしまってから、ノアは自分の言葉に気づいた。頬が、かっと熱くなる。人間の姿だったら、決して口にできなかった言葉だった。この距離の近さも、この時間も、山羊の姿になったからこそ、初めて許されたものなのかもしれない。それでも、口から出た言葉は、紛れもなく本心だった。
沈黙が落ちた。
レオニードは何も言わず、ただじっとノアを見つめていた。その視線は、これまでノアに向けられたどんな視線とも違っていた。値踏みするようでも、苛立っているようでもない、ただ、まっすぐにノアだけを映す視線だった。その視線に耐えきれず、ノアは慌てて言葉を継いだ。
「……今のは、忘れてください」
「断る」
短く、それでいてきっぱりと、レオニードはそう答えた。
「なぜだ、と聞いた。答えてもらった。忘れろと言われて、忘れられるはずがないだろう」
「もう一度言え、とは言わない。だが、忘れることもしない」
レオニードの声には、これまでにない真剣さが滲んでいた。ノアは、どう返せばいいのか分からず、ただ視線を落とした。ブラシを持つ手だけが、所在なさげに宙で止まっている。心臓が、いつになく大きな音を立てていた。
「殿下……」
「もういい」
しばらくの沈黙のあと、レオニードは、そう言うと、ふいに視線を逸らした。だがその声には、これまでにない柔らかさが滲んでいた。長い耳の先が、わずかに赤く染まっているように見えたのは、灯りのせいだけではないだろう。
「今日は、もう休め」
短く告げられたその言葉の意味を、ノアはまだ、うまく掴めずにいた。追い出されているのか、それとも別の意味があるのか、判断がつかなかった。それでも、静かにブラシを置き、一礼して部屋を出た。
扉を閉める間際、振り返ると、レオニードはまだ椅子に座ったまま、窓の外をぼんやりと見つめていた。その横顔には、いつもの尊大さも、苛立ちもなかった。ただ、何かを噛みしめるような、静かな表情だけがあった。触れられる、というたった一言が、これほどまでに自分の心を揺さぶるとは、レオニード自身も思っていなかったのだろう。
廊下を歩きながら、ノアは自分の胸の高鳴りに気づいていた。役に立つためでも、必要とされるためでもない。ただ、あの人のそばにいたいと思う気持ちが、確かに自分の中に芽生えていた。
これまでのノアにとって、誰かを想うということは、遠い世界の出来事だった。役に立つこと以外に、自分が誰かに求められる理由などないと思っていたからだ。だが今、胸の奥で騒いでいるこの感情は、そのどれとも違っていた。見返りを求めているわけでも、必要とされたいわけでもない。ただ、あの人の力になりたい、あの人の傍にいたいと、心の底から思っている自分がいた。
それが何を意味するのか、ノアにはまだ、名前をつけることができなかった。それでも、自室に戻り、静かに寝台に横たわりながら、ノアは今夜交わした言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。




