もわもわの毛とブラッシングと
あの朝以来、レオニードの毛は、放っておけばまた同じようにもつれてしまうのだと、ノアは知った。山羊の毛は、人の髪とは違い、抜け落ちることなく伸び続ける。手入れを怠れば、あっという間にもわもわと絡まり合い、元に戻すのに苦労することになる。
見かねたノアは、ある日、市場で見つけた獣毛用のブラシを手に取った。
「毛が絡まってしまいますので、少し整えさせていただきます」
「……好きにしろ」
不機嫌そうな声だったが、拒まれはしなかった。この数日で、レオニードの返事は、少しずつぶっきらぼうさが和らいでいるように、ノアには感じられていた。ノアはそっとブラシを差し入れ、絡まった毛を丁寧にほぐしていく。初めて触れる毛並みは、見た目よりもずっと柔らかく、指先に心地よい感触が伝わってきた。
「三分で終わらせろ」
そう言われても、ノアは手を止めなかった。三分で終わるような量の毛ではないことは、見れば分かることだった。
「そこではない、もっと下だ」
指示された通りに位置をずらすと、今度は別の注文が飛んできた。
「下手だ。もっと丁寧にできないのか」
「申し訳ございません」
謝りながらも、ノアは手つきを変えなかった。丁寧にやっているつもりだったが、これ以上何を求められているのか、正直なところよく分からなかった。それでも、ブラシを動かす手を止めることはしなかった。
「もっと優しくしろ」
「先ほどよりも力を抜いております」
「本当か」
「本当です」
問答のようなやり取りを繰り返しながらも、レオニードの声からは、少しずつ苛立ちの色が薄れていくのが分かった。
次々と飛んでくる注文に、ノアは一つひとつ静かに応じた。ブラシの角度を変え、力加減を調整し、絡まりやすい箇所を避けながら、根元から毛先へと丁寧に梳いていく。
そのうちに、レオニードの注文は、少しずつ数を減らしていった。
「殿下?」
返事がないことに気づき、ノアは声をかけた。
「……続けろ」
短く、そう返ってきた。その声には、これまでのような刺々しさがなかった。
「気持ちいいんですか?」
思わず尋ねると、レオニードは慌てたように声を上げた。
「違う」
否定の声にしては、少し早すぎる返事だった。ノアは、内心でそのことに気づきながらも、口には出さなかった。
「では、やめます」
ノアがブラシを止めようとすると、すぐに制止の声が飛んできた。
「誰がやめろと言った」
言っていることと、態度とが、まるで噛み合っていない。それでも、その矛盾こそが、レオニードという人の本音を物語っているように、ノアには思えた。
その慌てぶりに、ノアは思わず口元が緩みそうになるのをこらえた。何も言わず、再びブラシを動かし始める。
やがて、規則的なブラシの音だけが、静かな部屋に響くようになった。窓の外では、夕暮れの光が徐々に色を変えていく。レオニードは何も言わなくなり、その体からは、少しずつ力が抜けていくのが分かった。肩の強張りが緩み、耳の角度までもが、心なしか柔らかくなっていく。
しばらくして、ノアはふと気づいた。レオニードの呼吸が、いつの間にか穏やかなものに変わっている。
眠っていた。
誰の前でも隙を見せることのなかったこの人が、今、無防備な姿を晒している。呪われてからというもの、誰かの前でこんな風に眠ったことなど、一度もなかったのだろう。従者たちの誰にも、心を許すことができなかったのだから。眠るということは、それだけ相手を信じるということでもある。ノアはそのことに気づき、静かに胸が温かくなるのを感じた。
これまでの従者たちは、きっとこんな時間を持てなかったのだろう。頭を撫で、かわいいと笑い、床に餌を置いた者たちに、レオニードが心を許すはずもなかった。だが今、ブラシを通して伝わる手の動きだけが、ただ静かに、この人の毛並みを整えている。特別なことは何もしていない。ただ、当たり前のことを、当たり前に続けているだけだった。
ノアは、そっとブラシを動かす手を緩めた。起こしてしまわないよう、できるだけそっと、それでいて手を止めることはせず、ゆっくりと毛を梳き続けた。
窓辺に差し込む光が、白い毛並みを淡く照らしていた。規則的なブラシの音と、レオニードの静かな寝息だけが、部屋を満たしている。
ノアは、ふと自分の胸の内に気づいた。これまで誰かのそばにいることは、いつも「仕事」だった。役目を果たすための時間であり、自分がそこにいることを許してもらうための手段だった。役に立たなければ、ここにいる意味がない。そう思いながら過ごしてきた日々の中で、ただ誰かのそばにいるだけの時間など、これまで一度も経験したことがなかった。
前世でも、今世でも、誰かのそばにいる理由はいつも決まっていた。何かをするために、何かの役に立つために、そこにいた。ただ何もせず、誰かの寝顔を見つめているだけの時間など、想像したこともなかった。
だが今、この静かな時間は、それとは違う何かに感じられた。誰かに必要とされているからではなく、ただ、この人のそばにいることそのものが、不思議と心地よかった。ブラシを動かす手を止めても、何も言われない。何もしなくても、ここにいていいのだと、初めて思える気がした。
そんな感覚を覚えたのは、生まれて初めてのことだった。ノアは自分の変化に戸惑いながらも、その戸惑いすら、どこか穏やかなものに感じられた。窓の外では、夕焼けの赤が少しずつ薄れ、藍色の夜がゆっくりと空を覆い始めていた。
しばらくして、レオニードがふと目を覚ました。
「……俺は、眠っていたのか」
信じられないという顔で、レオニードは呟いた。まだ夢うつつといった様子で、瞬きを繰り返しながら、自分の置かれた状況を確かめるように、あたりを見回している。慌てて姿勢を正そうとしたが、力の抜けた体は、思うようには動かなかった。
「はい。少しの間ですが」
ノアは静かに答えた。
「そうか」
それだけ言うと、レオニードは何かを考えるように、しばらく黙り込んだ。窓の外に目を向け、夕暮れが夜へと変わりつつある空を、じっと見つめている。
「……従者に世話をされて眠るなど、初めてだ」
ぽつりと、そう漏らした。独り言のようでもあり、ノアに向けた言葉のようでもあった。
「不快でしたか」
「いや」
即座に、否定の言葉が返ってきた。
「不快ではなかった。それが、自分でも意外だった」
そう言うと、レオニードは少し気まずそうに視線を逸らした。長い耳が、わずかに伏せられる。それは、レオニードなりの照れ隠しなのだろうと、ノアには何となく分かった。それから、いつもより幾分か柔らかい声で、こう続けた。
「……もう少し、続けてくれ」
ノアは小さく頷き、再びブラシを手に取った。窓の外では、夕暮れの光が、静かに夜へと移り変わっていった。ブラシの音だけが響く部屋の中で、ノアはもう一度、静かな心地よさを噛みしめていた。役目としてではなく、ただこの時間そのものを、大切にしたいと思ったのは、これが初めてだった。




