荒れた離宮
離宮での暮らしに慣れるにつれ、ノアは少しずつ、この建物の全体を見て回るようになった。レオニードが日々過ごす部屋は、どうにか整えられていたが、その先は違った。
この離宮は、もとは長らく使われていなかった古い建物だった。呪いを受けたレオニードを、誰の目にも触れさせないよう静かに隔離するために、王家が急遽あてがった場所だという話を、ノアは案内の従者から聞いていた。手入れの行き届いた本宮とは切り離された、人目につかない場所。それこそが、ここが選ばれた理由だったのだろう。
奥の廊下は埃をかぶり、いくつかの部屋は扉すら開かなくなっていた。蝶番が錆びつき、力を入れても軋むばかりで開かない扉もあった。雨の日には天井のあちこちから水が滴り、床に置かれた古い桶が、それを受け止めていた。廊下を歩くだけで、床板がきしみ、あちこちにひびの入った壁からは、冷たい隙間風が忍び込んでくる。長く人が住んでいなかった建物ゆえの傷みが、そこかしこに残っていた。
庭に出れば、雑草が伸び放題で、かつては見事だったであろう花壇の面影はどこにもなかった。折れた枝が放置されたままの木々、崩れかけた石畳、蔦に覆われた東屋。誰も手入れをする者のいないまま長い年月を経てきたであろうその庭は、今ではすっかり荒れ果てていた。
隔離するための場所として選ばれた以上、住み心地など二の次だったのだろう。誰も寄りつかない場所には、誰も手を入れない。それでも、レオニードがこの荒れ果てた離宮に押し込められるようにして、日々を過ごしてきたのだと思うと、ノアの胸は静かに痛んだ。表向きの部屋だけを整えられ、その奥で朽ちていく建物と共に、この人はどんな気持ちで暮らしてきたのだろうか。
隔離という言葉の意味を、ノアは静かに噛みしめた。人目につかないようにと、この荒れた建物に押し込められたレオニードの扱いは、ノア自身がこれまで受けてきた扱いと、どこか重なるものがあった。ノアは、自分がこの離宮に来る前のことを思い、静かに唇を結んだ。
その夜、雨が強く降った。天井の隙間から落ちる水滴の音が、いつもより大きく響いていた。桶に溜まった水を捨てながら、ノアはふと考えた。
自分には、誰にも言っていない力がある。前世からの記憶と共に授かった、なんでもできてしまうその力を、ノアはこれまで、目立たないよう、こっそりとしか使ってこなかった。褒められることを望んでいたわけではない。ただ、誰かの役に立てるなら、それでよかった。それに、こんな大それた力は、自分には分不相応だという思いが、いつもノアの心のどこかにあった。人前で堂々と使うようなものではない。そう思っていたから、必要なとき以外は、静かに隠しておくことにしていた。
それでも、この夜だけは違った。桶からあふれそうになる雨水を見つめながら、ノアは静かに心を決めた。誰も見ていない夜なら、使っても構わないだろう。もし気づかれたとしても、驚かれるだけで、追い出されはしないはずだ。せいぜい、また「何者だ」と怪しまれる程度だろう。ノアはそう自分に言い聞かせて、部屋を出た。
廊下を進むほどに、傷みの度合いは深くなっていった。かつては誰かが暮らしていたはずの部屋の数々が、今ではただの物置と化している。誰にも使われないまま朽ちていくものたちを目にするたび、ノアの胸の奥に、静かな苛立ちに似た感情が湧いた。この人は、こんな場所で、一人で過ごしてきたのだ。
ノアは静かに、離宮の奥へと足を向けた。
まず、雨漏りのする屋根を見上げ、ノアは小さく手をかざした。
「直れ」
その一言と共に、傷んだ瓦が、みるみるうちに元の形を取り戻していく。続けて、ひび割れた壁に向かって手をかざす。
「元通りに」
壁は静かに閉じ、軋んでいた床板は、まっさらな木目を取り戻した。錆びついた扉の前に立ち、ノアは短く告げた。
「動くように」
蝶番が、なめらかに動くようになった。壊れていた家具の前でも、同じように手をかざし、小さく言葉を紡ぐ。
「継ぎ目なく、直って」
その言葉の通り、壊れていた家具は、継ぎ目一つ残さず修復されていった。
庭に出ると、ノアは月明かりの下、荒れた土に手を伸ばした。
「息を吹き返して」
長らく放置されていた庭に力を注げば、枯れかけていた木々が息を吹き返し、折れていた枝の代わりに新しい若葉が芽吹いていく。崩れた石畳に手をかざし、ノアは静かに続けた。
「並び直れ」
石畳は元通りに並び直り、蔦に覆われていた東屋に向かって、もう一度手を伸ばす。
「これも、元の姿に」
東屋は、白い柱を取り戻した。最後に、荒れていた花壇へと手を向け、ノアはそっと囁いた。
「咲いて」
花壇には、季節の花が一斉に咲き始め、あたり一面に、夜の静けさに似合わない華やかな香りが漂った。
作業を進めながら、ノアはふと思った。誰も見ていない場所に、これほどまでの力を注ぐことに、意味はあるのだろうか。それでも、手を止める気にはならなかった。誰かに見せるためではなく、ただ、この人が少しでも心地よく過ごせる場所を作りたい。それだけが、ノアの中にある、素直な気持ちだった。
作業を終えるころには、空が白み始めていた。ノアは疲れた体を引きずるようにして自室へ戻り、少しだけ目を閉じた。それでも、朝食の支度を休むわけにはいかなかった。
ノアは疲れた体で、いつも通り朝食の支度を始めた。レオニードが目を覚まし、部屋を出た瞬間、廊下で足を止める気配が伝わってきた。窓の外に広がる景色を目にして、しばらく身動きが取れないでいるようだった。
「……どうなっている」
呆然とした声だった。レオニードは窓に駆け寄り、蘇った庭を食い入るように見つめた。昨日までの荒れ果てた景色は、跡形もなく消えていた。
「一体、何が起きたんだ」
誰の仕業かも分からないまま、ただ困惑した様子で、レオニードは廊下や部屋の隅々を見回していた。傷んでいた壁も、軋んでいた床も、すべてが元通りになっている。
そのとき、様子を見に来たノアと目が合った。レオニードの視線が、はっとしたように鋭くなる。
「……お前が、やったのか」
「はい」
ノアは、いつもの調子でそう答えた。隠すつもりはなかった。信じられないものを見るような目で、レオニードは庭と、それから台所から出てきたノアとを、何度も見比べている。
「これくらいしかできません」
ノアは、いつもの調子でそう答えた。褒められることに慣れていない自分にとって、それが精一杯の返し方だった。役に立てたのなら、それでいい。それ以上の意味を、その言葉に持たせるつもりはなかった。
だが、返ってきたのは、これまで聞いたことのないほど鋭い声だった。
「今のを見て『これくらい』と言う人間がどこにいる!」
レオニードは、初めて本気で怒っていた。ノアは驚いて言葉を失った。何を、どこを、怒られているのか、まるで分からなかった。役に立てたはずだった。喜んでもらえるはずだった。なのに、なぜ怒鳴られているのか、ノアには理解できなかった。
「殿下、僕は何か、間違ったことを……」
「間違ってなどいない」
レオニードは苛立たしげに、それでいてどこか困惑したように、視線を庭からノアへと移した。
「屋根を直し、家具を直し、この荒れ果てた庭までを、一晩で元通りにした。それを『これくらい』の一言で片付けようとしている。それがどういうことか分かっていないのか!?」
「……申し訳ございません」
ノアは反射的に、頭を下げた。何に対して謝っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、相手を苛立たせてしまったという事実だけが、ノアにとっては何より重要だった。
「謝れと言っているのではない」
レオニードは、大きく息を吐いた。
「これだけのことをして、なぜそんなに、簡単に自分を安く見積もれるんだ」
その問いに、ノアはうまく答えることができなかった。安く見積もっているつもりはなかった。ただ、これが当たり前のことのように思えていただけだった。役に立つことは、特別なことではない。それが、ノアにとっての普通だった。
ノアは、何も言えなかった。
レオニードはしばらく黙って、ノアの顔を見つめていた。その視線の中に、怒りとは違う何かが混じり始めているのを、ノアはぼんやりと感じ取っていた。
——こいつは、謙遜しているのではない。
レオニードの中で、そう理解が変わっていくのが分かった。目の前にいるこの従者は、謙虚さから軽く言っているのではない。本当に、自分のしたことに、それだけの価値を見出せていないのだ。目の前で起きたことの大きさに対して、あまりにも釣り合わない、あっさりとした態度。それは、演技でも遠慮でもなく、ノアという人間の根底に、深く染み付いたものなのだろう。
レオニードは、これまでの数日間を思い返した。何を頼んでも文句一つ言わず、何をされても腹を立てず、褒めても素直に受け取らない。それが、ただの従順さや無関心からくるものではなく、こうした思い込みの表れだったのだと、今になって腑に落ちた気がした。
それは、レオニードにとっても、覚えのある感覚だった。かつて誰よりも美しいと言われ、誰よりも優れていると持て囃されていたはずの自分が、姿を変えられた途端、誰からも見向きもされなくなった。称賛の言葉ほど当てにならないものはないと、身をもって知っていた。
だが、ノアのそれは違う。誰かに裏切られたからではなく、最初から、自分にはそれだけの価値がないと思い込んでいる。何をしても、何を成し遂げても、その事実だけは揺るがない。それがどれほど根深いものか、レオニードには想像もつかなかった。だが、それでいて、なぜか他人事とは思えなかった。
自分もまた、姿を失ってから、鏡を見るたびに同じような感覚を覚えていたからだ。かつての自分を知る誰かに会うたびに、この姿では認めてもらえないのではないかと、心のどこかで身構えてしまう。形は違えど、根っこにあるものは、案外似ているのかもしれない。
なぜだ、と問いたくなる気持ちを、レオニードはその日、ただ黙って飲み込んだ。
「……もういい。それより、早く朝食を運んでくれ」
短く、それだけ言うと、レオニードは踵を返して部屋へ戻っていった。ノアは、その背中をしばらく見送っていた。怒られた理由は、結局よく分からないままだった。それでも、なぜか胸の奥が、少しだけざわついていた。
その日一日、レオニードはいつもより口数が少なかった。かといって、機嫌が悪いわけでもなさそうだった。ただ、何かを考え込んでいるような、そんな横顔を、ノアは何度か見かけた。理由を尋ねる勇気は、まだノアにはなかった。
夕食の席でも、レオニードは珍しく静かだった。いつものように味や温度について文句を言うこともなく、ただ黙々と皿を空にしていく。時折、ノアの方をちらりと見ては、何かを言いかけて、結局口をつぐんでしまう。その繰り返しに、ノアは少しだけ落ち着かない気持ちになりながらも、いつも通り給仕を続けた。
翌朝、いつも通り部屋を訪れたノアは、思わず足を止めた。
寝台の上で、レオニードの体が、いつもの倍近い大きさに膨れ上がって見えた。伸びすぎた毛が四方八方にうねり、もつれ合い、まるで白い毛玉の塊のようになっている。その真ん中で、レオニードがばつの悪そうな顔をして、身を縮めている。
「見るな」
低く、絞り出すような声だった。
「毛が伸びすぎてしまったんですね」
ノアは、努めて平静な声でそう告げた。内心では、少しだけおかしくなっていた。昨日まであれほど鋭い声で怒鳴っていた人が、今はもわもわの毛に埋もれて、途方に暮れている。
「見るな!!」
叫ぶように繰り返され、ノアは思わず、小さく笑いを漏らしそうになった。この人にも、こんな顔があるのだと、なぜか少しだけ、嬉しくなった。
「刈り取りませんと、余計に絡まってしまいます。少しだけそのままで」
ノアがそう言うと、レオニードは唸るような声を上げながらも、渋々といった様子で動きを止めた。もつれた毛を一房ずつほぐしながら、ノアは、この人の抱える傷の深さを、また一つ知ったような気がしていた。
伸びた毛を放っておけば、こうしてすぐにもつれ、絡まってしまう。定期的に手入れをしなければならないのだと、ノアは離宮に来てから初めて知った。だがこれまでの従者たちは、誰もそれを買って出ようとはしなかったのだろう。もつれた毛を気にして、鏡の前で長い時間を過ごすようになったことにも、ノアは気づいていた。かつて誰よりも美しいと言われた人が、今は自分のもわもわとした毛並みひとつに、これほど心を乱している。
その姿を見るたびに、ノアの中で、何かがそっと動くのを感じていた。役に立つこと以外の理由で、誰かのことを気にかけている自分に、ノアはまだ、うまく気づけずにいた。




