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2/11

もふもふの俺様王子


離宮での生活は、翌朝から始まった。


案内された厨房で、ノアは早速、朝食の支度に取りかかった。何を用意すればいいのか、誰も教えてくれなかった。だから、ノアは自分が知っている、当たり前の朝食を作った。白い皿に料理を盛りつけ、ナプキンを添え、椅子の位置を確かめる。皿の高さも、盛りつける量も、人が食事をとるときと、何ら変わらないようにした。


「殿下、お食事です」


そう声をかけると、レオニードは一瞬、動きを止めた。長い巻き毛の下から覗く瞳が、皿の上をじっと見つめている。何かを確かめるような、それでいて、どこか身構えるような視線だった。


「……皿なのか」


その声には、わずかな戸惑いが混じっていた。


「王子様ですので」


短く、ノアはそう答えた。他に理由など必要ないはずだった。餌桶ではなく皿を使うことに、驚かれること自体が、この離宮でこれまで何が起きていたのかを物語っていた。


「……そうか」


それだけ言うと、レオニードは静かに食事を始めた。皿の隅々まで、きれいに平らげていた。それが、無言のうちの、精一杯の礼のように、ノアには感じられた。


だが、心を開いたわけではなかった。むしろ、そこから本当の試練が始まった。


「茶がぬるい」


昼になると、差し出した茶器を一瞥もせず、レオニードはそう言い放った。ノアは黙って淹れ直した。二杯目も、三杯目も、同じ言葉が返ってきた。四杯目にしてようやく、レオニードは小さく鼻を鳴らして黙り込んだ。それが「合格」の合図なのだと、ノアは後になって知ることになる。


「毛布が重い」


夜になれば、そう言われた。軽い毛布に替えても、今度は「薄すぎる」と突き返される。かと思えば、少し厚手のものに戻すと、今度は何も言わずに眠りについてしまう。まるで、どこまで文句を言えば相手が根を上げるのかを、試しているかのようだった。


「窓から差す光が気に食わん」


翌朝になれば、そんな理由でカーテンの位置を何度も直させられた。右に寄せれば眩しいと言われ、左に寄せれば暗いと言われる。真ん中にすれば、今度は中途半端だと文句が飛んでくる。三日目、ノアがようやく丁度よい位置を見つけたときには、レオニードは何も言わず、ただ黙ってそのままにさせた。


そのほかにも、料理の温度、皿を置く角度、部屋の空気の匂いに至るまで、レオニードの注文は尽きることがなかった。数日のうちに、ノアは、王族とはこういうものなのかと理解していった。不思議と、腹は立たなかった。


一方で、ノアは離宮での日課にも少しずつ慣れていった。朝は誰よりも早く起き、湯を沸かし、部屋を整える。日中は書庫の整理や庭の手入れを頼まれることもあれば、何もするなと言われ、部屋の隅で一日を過ごすこともあった。何を頼まれても、何も頼まれなくても、ノアはただ黙って、そこにいた。誰かに必要とされなくても、その場に居続けることには慣れていたからだ。


無茶な要求が続くたびに、ノアはふと気づくことがあった。レオニードは、本当にわがままを言っているわけではないのかもしれない。むしろ、こちらがどう応じるかを、じっと試しているように見えた。


離宮に来る道すがら、案内の従者から聞いた話を、ノアは思い出していた。これまでの従者たちの中には、頭を撫でて「かわいい」と笑った者や、餌を床に置いた者、断りもなく体に触れた者がいたという。そのたびに、レオニードは烈火のごとく怒り、彼らを追い出してきた。


朝食での一件は、いわば最初の関門にすぎなかったのだ。人として扱われるかどうかは、皿一枚で決まるものではない。日々の些細なやり取りの一つひとつを通して、レオニードは今も、それを確かめ続けているのだろう。何度断られても、何度やり直しを命じられても、そこに悪意はないのだと、ノアには次第に分かってきた。むしろ、これほど神経質に確かめずにいられないほど、これまでの扱いに傷ついてきたということなのかもしれない。


ノアは自分の前世を思い出した。役に立つかどうかで、扱いが目まぐるしく変わる暮らし。誰かの機嫌を損ねないよう、常に相手の顔色を窺い続けた日々。レオニードの態度は一見すると正反対に見えたが、根っこにあるものは、案外似ているのかもしれないと、ノアは思った。信じてもいいのかどうか分からないまま、それでも確かめずにはいられない。その気持ちだけは、ノアにもよく分かった。


だとすれば、答えは単純だった。


いつも通りに、当たり前のことを、当たり前にすればいい。特別なことをする必要はない。ただ、この人を人として扱う。それだけでよかった。


その夜、寝室へ運ぶ書類を探しに、ノアは執務室に立ち寄った。誰もいないはずの部屋の隅で、レオニードが一人、机に向かっているのを見つけた。前脚代わりの蹄で器用に紙をめくり、書きつけられた文字を目で追っている。灯りを一つだけ灯した部屋で、その横顔は、これまでノアに向けてきた横柄な態度とはまるで違って見えた。


人の気配に気づくと、レオニードは慌てたように顔を上げた。


「……見るな」


ばつが悪そうに、そう言った。まるで、見られては困るものを見られたかのような口ぶりだった。


「何をなさっていたのですか」


「見ての通りだ。国境の報告書に目を通していた」


淡々とした答えだったが、その口ぶりには、隠しきれない誇りのようなものが滲んでいた。


「毎晩、こうして?」


思わず尋ねると、レオニードは少しの間、黙り込んだ。


「誰も見ていないと思っていたからな」


短い返事だったが、そこには、これまでの従者たちの誰にも、この姿を見せたことがなかったのだという事実が滲んでいた。


「山羊の姿で書類を読んでいても、誰も信じてくれないだろうからな」


自嘲するように、レオニードはそう付け加えた。その声には、これまでのぶっきらぼうな響きとは違う、どこか諦めたような色があった。


姿がどれほど変わっても、この人は王子としての仕事を、一日たりとも休んだことがなかったのだ。


ノアは、それ以上何も聞かなかった。ただ、静かに一礼して、部屋を出た。


山羊になっても、俺様であっても、この人はずっと、王子であろうとし続けている。誰にも見せることのないまま、机に向かい、報告書に目を通し続けてきたのだろう。


そのことに気づいてから、ノアの中で、レオニードという人物の見え方が、少しずつ変わり始めていた。横柄な物言いも、次々に飛んでくる無理難題も、今までとは違う響きを持って聞こえるようになっていた。それは、誰かを困らせるための我儘ではなく、自分の尊厳を保つために、精一杯張っている虚勢のようなものなのかもしれない。


翌朝もまた、レオニードは些細なことで文句を言った。それでもノアは、以前ほど気にならなくなっている自分に気づいていた。むしろ、その一つひとつのやり取りの奥に、何か大切なものが隠れているような気がして、ノアは今日も静かに、茶器を手に取った。


窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていく。その光の加減さえも、いつか丁度よいと言ってもらえる日が来るだろうか。そんなことを考えながら、ノアは湯気の立つ茶器を、いつもより少しだけ丁寧に、テーブルの上へ置いた。

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