↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/11

誰もやりたがらない役目


ノアには、物心ついたときから「役に立つこと」しか、生きている意味がなかった。


前世の記憶は、今もはっきりと残っている。施設で育ち、幼いうちに、工場を営む夫婦に引き取られた。ゆくゆくは工場を任される、と最初は言われていた。跡継ぎとして、いずれこの家の主になるのだと。


だが実際にノアがしていたのは、跡継ぎとしての仕事ではなかった。人手が足りない現場を、朝から晩まで埋め合わせるだけの仕事だった。重い荷物を運び、機械の油を差し、大人でも音を上げるような作業を、文句も言わずにこなした。


期待に応えられなければ、叱責が飛んできた。褒められることは、ほとんどなかった。役に立たなければ、自分はここにいる価値がない。そう思いながら大人になり、そう思ったまま、命を落とした。何がきっかけだったのかも、今となってははっきりと思い出せない。ただ、最後まで誰かに必要とされたという実感だけが、なかった。


夫婦は決して、ノアに冷たい言葉ばかりをかけていたわけではなかった。むしろ時折、「お前がいてくれて助かる」と言うこともあった。だがそれは、息子としての自分に向けられた言葉ではなく、便利な働き手としての自分に向けられた言葉だということを、ノアはいつからか理解していた。だから素直に喜ぶことができなかった。喜んでしまえば、自分がその程度の存在でしかないことを、認めてしまうような気がしたからだ。


生まれ変わるその瞬間、ノアは女神の声で「この国を平和に導いてほしい」と告げられ、同時になんでもできるというチートを授かっていた。だが目を開けた先で待っていたのは、そんな大それた言葉とは似ても似つかない、貴族の中ではありふれた男爵家での産声だった。


転生しても、そのかたちは変わらなかった。


男爵家の五男として生まれたはずなのに、ノアの扱いは使用人とほとんど同じだった。上の兄たちは家の跡取り候補として大切に育てられ、姉たちは嫁ぎ先を選ぶための教育を受けていた。だがノアには、そのどちらの役割も与えられなかった。五番目の息子など、家にとっては数合わせでしかない。


食事は台所で余ったものを、部屋は物置の隣を与えられた。声をかけられるのは、たいてい用事を言いつけられるときだけだった。それでもノアは、誰かを恨んだことはなかった。恨んだところで何かが変わるとは思えなかったし、何より、そんな資格が自分にあるとも思えなかった。ただ、目の前の仕事をこなすことだけが、自分の存在をこの家に許してもらう、唯一の方法だと思っていたからだ。


庭の手入れも、厨房の下働きも、来客の靴を磨くことも、頼まれれば断らなかった。誰も見ていないところで、女神から授かった不思議な力をこっそり使い、誰かの仕事を肩代わりしたことも一度や二度ではない。それでも礼を言われることはほとんどなく、当たり前のように次の仕事が言いつけられるだけだった。ノアは、それでいいと思っていた。役に立っている限り、ここに置いてもらえる。それだけで、十分だった。


十七年、そうやって生きてきた。


その夜、家族は王城の夜会へ出かけていった。


第二王子のために開かれる、「真実の愛を見つける夜会」だという話だった。国じゅうの貴族に招待状が送られ、着飾った令嬢たちが競うように集まると聞いていた。第二王子はこの国でも指折りの美貌の持ち主で、実力もあると評判だった。誰もが、彼の伴侶の座を狙っていた。


もちろん、ノアには関係のない話だった。留守番を言いつけられるのは、いつものことだったから。


馬車の音が遠ざかっていくのを、ノアは玄関先で見送った。誰も振り返らなかった。いつものことだ、と自分に言い聞かせて、ノアは静まり返った屋敷の中へ戻った。


その夜会からの帰り道で、事故は起きた。


夜の街道で馬車の車輪が外れ、崖の下へ転落したのだという。知らせを受けたときも、ノアはとっさに実感が持てなかった。屋敷はすぐに騒がしくなり、見たこともないような遠縁の親戚たちが、慌ただしく出入りするようになった。爵位も、財産も、あっという間にその親戚のもとへ渡っていった。誰も、ノアの今後について長く話し合おうとはしなかった。


「さて。お前はどうする?」


親戚の一人が、荷物を運び出す使用人たちを横目に、そう言って屋敷を出ていった。それが、ノアが受けた、家族に関する最後の言葉だった。


住む場所も、仕事もない。行くあてもない。ノアはしばらく、自分でもどうしていいか分からなかった。悲しいはずなのに、涙よりも先に浮かんできたのは、ひどく静かな、行き場のなさだった。誰かがいなくなったことよりも、自分がどこにも属していないという事実のほうが、重くのしかかってきた。


葬儀のあいだも、ノアはどこか他人事のように振る舞う自分に気づいていた。悲しくないわけではなかった。ただ、悲しんでいい立場なのかどうかすら、自分では判断がつかなかった。誰にも呼ばれず、誰にも役目を与えられないまま立ち尽くすのは、生まれて初めての経験だった。役に立つこと以外で、自分がその場にいる理由を、ノアは知らなかった。


そんなとき、市場で小耳に挟んだのが、あの噂だった。


「第二王子の従者が、三日ももたないらしいぞ」

「あの夜会、結局失敗だったそうじゃないか」

「呪われた上に、誰も寄せつけないなんてなあ。可哀想に」


聞けば、真実の愛を見つけるはずだった夜会は、思わぬ結末に終わったのだという。集まった令嬢たちは、誰一人として第二王子を選ばなかった。それどころか、王子はますます人を寄せつけなくなり、辺境へ連れていくために送り込まれてくる従者候補を、片っ端から追い返しているらしい。貴族のあいだだけの話のはずなのに、市場でまで噂になるほど、誰もが口さがなく言い立てていた。


誰もやりたがらない役目。


ノアは、その言葉に妙に心を惹かれた。誰も欲しがらないのなら、自分のような人間でも、務まるかもしれない。役に立てるなら、それだけで、自分がここにいてもいい理由になる。


断られてもともとだ、とノアは思った。もし追い返されたとしても、それはこれまでと同じ、いつものことだ。むしろ、名乗り出て断られるほうが、誰にも見向きもされないまま行くあてを失うよりも、まだましなように思えた。


「僕にならできるかもしれません」


役所の窓口でそう告げたとき、担当官はあからさまに驚いた顔をした。何度も本当にいいのかと念を押されたが、他に立候補する者もいなかったのだろう。話はあっけないほど早く進み、ノアは数日のうちに、王城の奥にある離宮へと通されることになった。


離宮までの道のりは、王城の中でもひときわ静かだった。案内してくれた従者は、歩きながら小声でこう教えてくれた。これまで来た従者たちの中には、頭を撫でて「かわいい」と笑った者や、床に直接器を置いた者がいたこと。そのたびに殿下はひどく気分を害され、即座に追い出されてきたこと。すれ違う使用人たちは、ノアの姿を見ると、憐れむような、それでいてどこか安堵したような視線を寄越した。ようやく次の犠牲者が見つかった、とでも言いたげだった。ノアはその視線に、特に何も感じなかった。慣れていたからだ。


案内された部屋の扉を、従者が静かに開ける。ノアはその向こうに広がる光景を見て、思わず足を止めた。


そこにいたのは、人間ではなかった。


ふわふわとした真っ白な毛に覆われた、大きなアンゴラ山羊だった。長く波打つ巻き毛が、座っている椅子からあふれ落ちるようにこぼれている。円らな瞳がこちらを見据え、優雅とすら言える仕草で顔を上げたその姿は、確かに、人ならぬ気品を纏っていた。


窓から差し込む光の中で、白い毛並みだけがやけに際立って見えた。噂には聞いていたが、実際に目の当たりにすると、ノアはしばらく現実感を持てなかった。国一番の美貌と評判だった王子が、こんな姿になっているとは、誰も想像していなかっただろう。


これが、第二王子。国じゅうに知れ渡っていたはずのその名を、ノアはこの日、初めて実感を伴って思い出した。第二王子レオニード。


ノアはしばらく、言葉が出てこなかった。想像していたどんな結末とも違っていた。


「なんだ。その顔は」


低く、苛立ったような声だった。人語を話す山羊、という事実よりも、その声に滲む剣呑さのほうが、ノアには気になった。


「……思っていたより、毛が多くて」


思わず、そのまま口にしてしまう。他に気の利いた言葉が、まるで見つからなかった。


「帰れ」


短く、切り捨てるように言われた。今までの従者候補たちも、きっと同じように追い返されてきたのだろう。ノアはそこで、初めて自分の状況を思い出した。


「帰るところがありません」


沈黙が落ちた。


山羊の姿をした王子は、しばらく無言でノアを見つめていた。値踏みするような、それでいてどこか戸惑っているような視線だった。おそらく、こんな返答をした人間は初めてだったのだろう。


「…………」


「…………」


長い沈黙のあと、先に折れたのは、王子のほうだった。


「今日から働け」


それが、王子から与えられた最初の命令だった。安堵する間もなく、王子は続けて低く言い放った。


「俺を絶対に山羊扱いするな」


まるで、これまで何度もそう扱われてきたかのような、覚悟を決めたような口ぶりだった。念を押すように繰り返されたその一言には、これまで積み重ねてきたであろう失望の分厚さが滲んでいるように、ノアには感じられた。


「かしこまりました、殿下」


ノアは静かに一礼した。それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。ただ、この人を山羊として扱ってはいけない、ということだけは、はっきりと理解できた。


案内された部屋を見回して、ノアはその理由に気づいた。


窓際の隅に、無造作に置かれた餌桶があった。誰かが、これまでの従者の誰かが、置いていったものなのだろう。皿でも、器でもなく、餌桶。道々従者から聞かされた話が、頭の中でよみがえった。頭を撫でられ、かわいいと笑われ、床に器を置かれたこと。


それを思い出すだけで、ノアの胸の奥がひやりとした。姿が変わっただけで、これほどまでに人の扱いは変わってしまうものなのか。ノアは静かに餌桶を見つめたまま、これを片付けるところから、自分の仕事を始めようと決めた。


姿が山羊になっても、この人は王子だ。今も、そのつもりで生きている。なのに、これまでここに来た者たちは、誰もそれを分かろうとしなかったのかもしれない。


誰にも必要とされない場所に、自分から名乗り出た自分と。誰からも人間として扱われない場所に、一人で取り残されているこの人と。


ノアは、なぜかそのとき初めて、行き場のなさが自分だけのものではないのだと知った。それは、これまで感じたことのない、奇妙な感覚だった。自分と同じ孤独が、王子にも存在していると気づいたのだ。


明日から、この人のために働く。役に立てるかどうかは、まだ分からない。それでも、餌桶ではなく、皿を用意することくらいは、自分にもできるはずだった。ノアは小さくそう心に決めて、あてがわれた続き部屋へと足を向けた。


窓の外はすでに暗くなり始めていた。行くあてを失った日から、こんなにも早く次の居場所が決まるとは思っていなかった。それが良いことなのか、悪いことなのか、ノアにはまだ分からなかった。ただ、明日からの仕事のことを考えると、不思議と足取りは軽かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。