真実の愛が解くもの
呪いが解けなかった夜から、数日が過ぎていた。
水路の工事は無事に完了し、村には安定した水が届くようになっていた。国境の緊張も、目に見えて和らいでいた。両国の民が、共に働き、共に水を分け合ったことで、争いの火種は、少しずつ消えかけていた。乾いていた大地には、少しずつ緑が戻り始め、遊牧民たちの越境をめぐる小競り合いも、噂に聞かなくなっていた。あれほど乾いていた井戸端には、今では子どもたちの笑い声が響くようになっていた。
だが、レオニードの姿は、依然として山羊のままだった。あの夜の口づけも、確かな想いも、呪いを解くには至らなかった。二人の間には、以前のような穏やかさが戻ってはいたが、その奥底に、解けない謎への戸惑いが、静かに横たわり続けていた。
「なぜだろうな」
ある夜、ブラッシングをするノアに、レオニードがぽつりと呟いた。窓の外には、静かな夜が広がっていた。灯りの下で、レオニードの表情には、これまで見せたことのない、深い疲れの色が滲んでいた。
「お前の言葉に、嘘はなかったはずだ。俺も、お前を失いたくないと、心の底から思った。それなのに、呪いは解けない」
その声には、失望というよりも、純粋な戸惑いが滲んでいた。もしかしたら、自分の想いが、まだ足りないのだろうか。そんな不安さえ、その声からは感じ取れた。ノアも、答えを持たなかった。ただ、静かにブラシを動かし続けた。二人の間に、答えの出ない問いだけが、静かに漂っていた。
「もしかしたら」
しばらくの沈黙のあと、ノアがそう切り出した。ブラシを動かす手を止め、静かに言葉を選びながら続ける。
「呪いを解く条件は、僕が殿下を想うことだけではないのかもしれません」
「どういう意味だ」
「殿下ご自身は、この姿を、受け入れていらっしゃいますか」
その問いに、レオニードは、答えられなかった。長い沈黙が、部屋を満たした。
ノアは、静かに続けた。
「殿下は、ずっと、この姿を恥じていらっしゃるように見えます。ライオンだったら、と何度も口にされていました。夜会での一言を、ずっと引きずっていらっしゃいます。誰かに愛されることは、望んでいらっしゃいました。でも、ご自分がこの姿のままでいいと、心から思っていらっしゃるかは、分かりません」
図星だったのだろう。レオニードは、しばらく黙り込んでいた。視線を伏せ、自分の前脚を、じっと見つめている。
「……そうかもしれない」
ようやく、絞り出すように、レオニードはそう認めた。
「俺は、ずっと、この姿の自分に価値がないと思っていた。だから、誰かに愛されることでしか、その価値を取り戻せないと思っていたのかもしれない」
その言葉に、ノアの手が、思わず止まった。それは、ノア自身が長年抱えてきた思い込みと、あまりにも似ていた。誰かに認められなければ、自分には価値がない。二人は、姿こそ違えど、同じ場所で立ち止まっていたのかもしれない。
「殿下は、殿下です」
ノアは、あの離宮で最初に伝えた言葉を、もう一度、口にした。
「ライオンでも、人間でも、山羊でも、変わりません。僕は、殿下がどんな姿であっても、殿下を想う気持ちは変わらないと思っています。でも、それを殿下ご自身が受け入れられなければ、きっと、何も変わらないんだと思います」
その言葉に、レオニードは、しばらく黙って耳を傾けていた。何かを噛みしめるように、静かに目を閉じている。
「殿下」
ノアは、静かに口を開いた。何かを確かめたいという思いが、胸の中で膨らんでいた。
「本当に、この姿の俺でもよかったのか」
先に問いかけたのは、レオニードの方だった。その声には、これまでのどんな問いよりも、真剣な響きがあった。
「はい」
ノアは、迷わず答えた。一瞬の迷いも、そこにはなかった。
「王子でなくても?」
「はい」
「一生この姿でも?」
その問いに、ノアは、少し考えてから答えた。真剣に問われている以上、軽々しい返事はしたくなかった。
「その場合、一生ブラッシングします」
きっぱりと、ノアはそう言い切った。
一瞬の沈黙のあと、レオニードが、小さく吹き出した。それは、これまで聞いたことのない、屈託のない笑い声だった。抑えることもせず、腹の底から込み上げてくるような、心からの笑いだった。
「お前は、本当に……」
笑いすぎて、うまく言葉が続かないようだった。ノアは、そんなレオニードの様子を、少し驚きながら見つめていた。こんな風に、心から笑うレオニードを見るのは、初めてだった。
「……なら、この姿も悪くなかった」
笑いながら、レオニードはそう言った。その声には、これまで感じたことのない、心からの穏やかさがあった。
「お前に会えたからな」
その一言には、これまでの傷も、恐れも、すべてを受け入れたような、静かな強さがあった。ライオンだったら良かったのに、という言葉に、長い間囚われ続けてきたレオニードが、今、初めて、自分の姿そのものを、肯定していた。
その言葉を口にした瞬間、レオニードの体が、まばゆい光に包まれた。白い毛並みが、光の中に溶けていく。長く伸びていた毛並みが、一筋また一筋と、光の粒子となって空に消えていった。ノアは、思わず目を細めた。眩しさの中に、確かな温かさが混じっているのを感じた。
光が収まったとき、そこに立っていたのは、山羊ではなく、一人の青年だった。
夜会の噂に違わぬ、美しい顔立ち。金の髪と、意志の強そうな瞳。だが、ノアの目には、その姿よりも、その表情に浮かぶ、穏やかな笑みの方が、ずっと印象的だった。これまで一度も見たことのない、屈託のない笑顔だった。
「……戻った」
信じられないというように、レオニードは自分の両手を見つめた。人間の指、人間の肌。長らく忘れていた感触に、レオニードはしばらく、言葉を失っていた。指を握ったり開いたりしながら、まるで初めてその手を得たかのように、何度もその感触を確かめている。頬に触れ、髪に触れ、自分がもう山羊ではないことを、一つひとつ確かめているようだった。
「本当に、戻ったんですね」
ノアも、目の前の光景が信じられず、思わずそう呟いた。何ヶ月も見慣れていたはずの、あの白い毛並みの姿が、今はもうどこにもない。それでも、そこに立っているのは、間違いなく、あのレオニードだった。声も、眼差しも、あの日から少しも変わっていない。
「……ああ」
レオニードは、自分の姿を確かめるように、両手を何度も見つめ直していた。それから、ふと顔を上げ、ノアの方を見た。その瞳には、驚きと共に、深い安堵が浮かんでいた。
だが、物語は、そこで終わらなかった。
レオニードは、人間の姿になったその手で、ノアの肩を、そっと掴んだ。
「次は、お前だ」
「え?」
突然のことに、ノアは戸惑った。
「俺が、山羊の姿でも愛される価値があるなら」
レオニードは、まっすぐにノアを見つめて、続けた。人間の姿になっても、その瞳の強さは、少しも変わっていなかった。
「お前が男爵家の五男だろうが、使用人上がりだろうが、愛される価値がない理由にはならん」
その言葉が、ノアの胸に、まっすぐ届いた。
これまで、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉があった。役に立たなければ、価値がない。使用人上がりの人間には、幸せになる資格がない。前世でも、今世でも、繰り返し繰り返し、自分に刻み込んできた言葉だった。だが今、目の前のこの人が、その思い込みを、真正面から否定してくれている。しかも、自分自身の経験を通して、それを証明してくれている。
「僕は……」
言葉に詰まったノアの目から、堪えきれなかった涙が、一筋こぼれ落ちた。長年、胸の奥に押し込めてきた問いが、今、初めて声になろうとしていた。
「僕にも、価値があるんでしょうか」
ずっと聞きたくても聞けなかった問いだった。前世でも、今世でも、誰にもぶつけることのできなかった、心の底からの問い。それを、今、初めて誰かに向けることができた。
「ある」
レオニードは、迷わずそう言い切った。一瞬の迷いもない、まっすぐな声だった。
「お前がいたから、俺は救われた。お前の力があったからじゃない。お前が、お前だったからだ」
レオニードは、続けて言葉を紡いだ。
「屋根を直したから、庭を蘇らせたから、井戸を掘ったから。そんな理由で、俺はお前を求めたわけじゃない。お前が、誰かのために涙を流し、誰かのために怒り、誰かのために笑う。そのすべてが、俺にとってはかけがえのないものだった」
その言葉と共に、ノアの胸の奥で、何かが解けていくのを感じた。長年、自分を縛り続けてきた思い込みが、静かに、けれど確かに、溶けていく。役に立たなければ、価値がない。誰かの期待に応え続けなければ、ここにいる資格がない。そう思い込んできた鎖が、一つ、また一つと、外れていくようだった。
「ありがとうございます、殿下」
「レオニードだ」
改まった呼び方を、レオニードは即座に遮った。
「もう、殿下と呼ぶ必要はない。それに、これから先も、そう呼ばれ続けるのは、少し寂しい」
その言い方に、ノアは思わず、小さく笑ってしまった。
「……レオニード様」
ノアは、初めてその名前を、そのまま口にした。舌の上で、その響きを確かめるように、ゆっくりと。名前を呼ぶという、たったそれだけのことが、これほど胸を熱くさせるとは、思ってもみなかった。
「様、はいらない」
「それは、まだ難しいです」
「なら、時間をかけて慣れればいい」
レオニードは、そう言って、穏やかに笑った。急かすつもりはない、というように。その優しさに、ノアの胸が、また一つ、温かくなった。これまでのレオニードなら、きっと苛立たしげに命令していたはずだ。だが今は、ただ静かに、ノアのペースを待ってくれている。その変化そのものが、この数か月の歩みを物語っているようだった。窓の外では、夜風がそよぎ、遠くから、水路を伝う水の音が、かすかに聞こえてきた。
二人の間に、これまでとは違う、穏やかな沈黙が流れた。乾いていたはずの辺境の地に、静かな風が吹き抜けていった。窓の外に広がる夜空には、無数の星が瞬いていた。かつて、この地の水源を巡って争いが絶えなかったことが、まるで遠い昔のことのように思えた。
離宮を出てからの日々を、ノアはふと振り返った。誰もやりたがらない役目に、なんとなく手を挙げたあの日。あの選択が、今、こうして自分自身を肯定する結末につながっているとは、あのときのノアには、想像もできなかったことだった。
この地に、そして、二人の心に、ようやく本当の平和が訪れようとしていた。呪いという枷から解き放たれたレオニードと、長年の思い込みから解き放たれたノア。二人はこれから、対等な立場で、それぞれの未来を、共に歩んでいくことになるのだろう。




