もうブラシはいらないはずなのに
あれから、数か月が過ぎていた。
両国共同の水源整備は着実に進み、かつて水を巡って睨み合っていた国境には、今では穏やかな空気が流れている。井戸端では、両国の子どもたちが共に水を汲み、遊牧民たちの天幕と、辺境の村とを、行き来する人の姿も珍しくなくなっていた。かつて争いの火種だった水源は、今では両国をつなぐ、確かな絆になっていた。作物も豊かに実り、以前は痩せていた土地に、今では活気が戻っていた。
呪いが解けたレオニードは、王都からの正式な使者を通じて、辺境の統治を正式に任されることになった。王都に戻ることも選べたはずだが、レオニードは迷わず、この地に残ることを選んだ。滞在拠点として整備されたこの辺境の館は、両国の代表が行き来するようになり、両国の交流の拠点として、少しずつ生まれ変わりつつあった。壁は塗り直され、庭には季節の花が絶えず咲き、着任当初の殺風景な様子は、もうどこにもなかった。
ノアは、補佐官としてレオニードのそばに残ることを、自ら選んだ。男爵家の五男という肩書きは、もう誰も気にしなくなっていた。辺境の民にとって、ノアは水を、平和を、この地にもたらした人物として、深く信頼されていたからだ。時折、村を歩けば、子どもたちが駆け寄ってきて、ノアの手を引っ張ることも珍しくなかった。かつて「所詮は男爵家の五男」と嘲笑した貴族たちの言葉は、今ではこの地の誰の記憶にも、残っていなかった。
二人は、辺境の館の一室で、共に暮らしていた。慌ただしく駆けつけたばかりの頃には殺風景だったその部屋も、今ではすっかり、二人が並んで座って過ごす、静かな時間の場所になっていた。
ある夜のことだった。夕食を終え、書類仕事を片付けたレオニードが、ふらりとノアの部屋を訪れた。何も言わず、椅子に腰を下ろす。灯りの下、レオニードの金の髪が、柔らかく光っていた。
「ノア」
「はい」
「ブラシを持て」
その一言に、ノアは思わず、目を瞬かせた。何度も手にしてきたはずのその言葉が、今はもう、意味を成さないもののように聞こえたからだ。手元の書き物から顔を上げ、レオニードの様子をまじまじと見つめる。冗談を言っているのかとも思ったが、その表情は、いたって真剣だった。
「……殿下、もう毛ありませんよ」
人間の姿に戻ってから、レオニードの体には、あの白い毛並みは、もうどこにもなかった。艶やかな金の髪と、滑らかな肌があるばかりだ。ブラシで整えるようなものと言えば、せいぜい髪くらいのものだった。
「知っている」
レオニードは、当然のようにそう答えた。悪びれる様子は、少しもなかった。
「では、なぜ」
ノアは、困惑しながら尋ねた。ブラシを使う理由が、どこにも見当たらなかった。実用的な意味では、もう何一つ必要のないはずの道具だった。それでも、レオニードは、わざわざそれを持ってこいと言う。その真意が、すぐには掴めなかった。
レオニードは、少し不機嫌そうな顔をして、視線をわずかに逸らした。腕を組み、何か言いたげに口を開きかけては、また閉じる。その仕草に、ノアは既視感を覚えた。
「あの時間が、好きだったんだ」
ぽつりと、そう漏らした。照れくささを隠すように、そっけない口調だったが、その耳が、わずかに赤く染まっているのを、ノアは見逃さなかった。人間の姿になっても、照れたときの仕草だけは、あの山羊の頃と、少しも変わっていなかった。
その言葉に、ノアは、思わず笑ってしまった。
かつて、あの離宮で初めて出会った日のことを、ノアはふと思い出していた。餌桶を見つめ、この人がどんな扱いを受けてきたのかを静かに悟った、あの瞬間のことを。注文ばかりを並べるレオニードに戸惑いながら、それでもブラシを手に取った、あの日のことを。三分で終わらせろ、そこではない、下手だと、次々に飛んでくる注文に応え続けた、あの最初の夜のことを。あのときは、まさかこんな穏やかな夜が訪れるとは、想像もしていなかった。
あの静かな時間が、いつしか二人にとって、かけがえのないものになっていた。世話をする側と、される側という関係ではなく、ただ、互いのそばにいるための、大切な時間に。役に立つためでも、必要とされるためでもなく、ただ、その時間そのものが、二人にとって愛おしいものになっていた。
「分かりました」
ノアは、笑いを堪えながら、そう答えた。
「では、髪を整えさせていただきます」
引き出しから、人の髪用に買い求めていたブラシを取り出す。艶やかな金の髪に、ノアはそっとブラシを通した。柔らかな金の髪が、灯りの下で、さらさらと流れていく。人の髪をこうして梳くのは、あの山羊の毛を梳いていたときとはまた違う、新鮮な感覚だった。
「……どうだ」
しばらくの沈黙のあと、レオニードがそう尋ねた。その声には、どこか探るような響きがあった。
「気持ちいいんですか?」
かつて交わした問答を、ノアは思わず繰り返した。あの頃と同じように、少しいたずら心を込めて。
「違う」
レオニードは、即座にそう返した。だが、その声には、あの日と同じ、隠しきれない照れが滲んでいた。
「では、やめます」
「誰がやめろと言った」
その返しもまた、あの日と、まったく同じだった。ノアは、堪えきれずに、小さく声を立てて笑った。あの頃と何も変わっていない、この人らしいやり取りに、胸の奥が温かくなる。
「殿下は、本当にお変わりになりませんね」
「お前がそう言うのなら、それは褒め言葉として受け取っておく」
レオニードは、そう言って、少し得意げに笑った。人間の姿になっても、その表情の作り方は、あの山羊だった頃と、少しも変わっていなかった。ノアもまた、そんなレオニードの様子を見て、自然と頬が緩んだ。互いに軽口を叩き合えるこの関係が、ノアにとって、何よりも心地よいものになっていた。
窓の外には、穏やかな夜が広がっていた。乾いていたはずのこの地に、今では緑が戻り、静かな水音が、遠くから聞こえてくる。かつて、争いの絶えなかったこの土地に、こんなにも穏やかな夜が訪れる日が来るとは、誰も想像していなかっただろう。
世話をする関係から始まった二人の時間は、いつしか、ただそばにいたいと願う、対等な関係へと変わっていた。役目のためでも、必要とされるためでもなく、ただ、この人のそばにいたい。その気持ちだけが、今のノアを、静かに満たしていた。誰かの役に立てるかどうかで、自分の価値を測っていたあの頃のノアは、もうどこにもいなかった。
「殿下、お食事です」から始まった二人の関係は、数えきれないほどの言葉と、数えきれないほどの静かな時間を経て、今ここにある。荒れた離宮も、乾いた大地も、二人の間にあった疑いも、すべてが少しずつ、確かな何かへと変わっていった。ブラシの音だけが、静かな部屋に、優しく響いていた。窓辺には、月の光が柔らかく差し込み、二人だけの穏やかな夜を、そっと照らしていた。もう毛を梳く必要のない髪を、それでも丁寧に、時間をかけて整えながら、ノアは、これからも続いていくであろう、この穏やかな時間を、静かに噛みしめていた。




