#02 雨宿りと、一匙のぬくもり
わたしがどうして、こんなにも高畑さんを好きになったのか。
カウンター越しに彼が困った顔をするたび、お店に広がる紅茶の香りと一緒に、わたしの心はあの雨の日へと引き戻される。
あの日、初めて出会った彼も。
やっぱり同じように困った顔をしていたのだ。
全ての始まりは、本当にささいなこと。
スマホの画面にぽつんと浮かんだ、たった五文字のメッセージだった。
…………………………………………………………………
[重いんだよ]
それがわたしの初めての恋の終わりだった。
生まれて初めてできた同い年の彼氏。
わたしにとっては初めての経験で、だからこそただ傍にいたくて紡いだ言葉だった。
ほんとうにごく普通の、あたりまえの感情。
-いまどこにいるの?
-連絡はまめにほしいな。
-寝る時にすこし電話できないかな?
けれど、わたしの真っ直ぐすぎる想いは、彼にとってはただの「重荷」でしかなかったらしい。
向けた愛の重さの分だけ、人は離れていくのだと知った。
最初からこんなに傷つくのなら、これ以上誰かを好きになる必要なんてない。
もう恋なんてしなくてもいい。
悲しさや寂しさの中、どこか遠くに行ってしまいたいと思いたくて、気づいたとき、わたしは雨のなかに立ち尽くしていた。
傘を開く元気もなくて、ただ雨に濡れながら、熱くなった頭を冷ますようにじっとしていたのだった。
「お姉さん一人?こんな雨のなか、ひとりで何してんの?」
ふと顔を上げると、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた知らない男が立っていた。
その瞬間、背中がぞくりとする。男の視線が、雨でびしょ濡れになって肌にペタッと張り付いた制服に向いているのが分かったからだ。
「だいじょうぶです」
そう思って足を引いた矢先、がしりと腕を強引に掴まれた。
嫌だ、触られたくない。
「なになに、どうしたの。全然大丈夫じゃないじゃん、話くらい聞くって」
「離して……!」
「いいから、ね? そこのカラオケでさ、あったかいものでも飲みながら話そうよ」
にやにやと笑う男の向こう側から、もう一人の男も距離を詰めてくる。
掴まれた手を必死に振り払おうとしても、大人の男の人の力には到底勝てない。
身をよじって引こうとしても、濡れた地面に足が滑り、虚しく引きずられそうになるばかり。
怖い、こわい、こわい…!
いやだ、誰か、誰か助けて。
そう心の中でに叫んだ瞬間、男の腕を背後から止める人がいた。
「こら、なにしてるの」
胸の奥に心地よく響くような、低くて穏やかな声。
驚いて見上げると、そこには大きな傘を差した、背の高い眼鏡をかけた男の人が立っていた。
透き通るビニール傘越しに、優しい光が差し込んでいる。
「嫌がってるよ」
傘を差した人はそう言って、男の手をしっかりとつかみ、冷たい視線を向けた。
声は穏やかだけど、眼鏡のレンズについた雨粒の奥で、目はちっとも笑っていなかった。
「ここはうちの店の前だからさ。そういうの困るんだよね」
そう淡々と言いながら、傘を持っていない方の手で、コツンと男の頭を軽く小突く。
「警察を呼ばれる前に、帰りな」と告げると、そのなれたような態度に怯んだのか、男はチッと舌打ちをして、わたしの腕を乱暴に放して去っていった。
助かったの、かな。
雨がざあざあと降り続く中、水たまりを見つめたまま、わたしは消えそうな声でつぶやいた。
「あ…」
ありがとうございます、と言おうとしたけれど、声が震えてうまく出ない。
安心したせいか、急に足の力が抜けて、そのまま地面にストンと座り込んでしまった。
「だいじょうぶ?」
わたしに声をかけてくれたその人の声は、柔らかくて優しかった。
その人は、地べたに座り込んでしまったわたしを見て、目線に合わせてその場にそっとしゃがみ込み、困ったように眉を下げていた。
まるで、助けた自分の方が困っているみたいな顔で。
「驚かせてごめん、もうだいじょうぶだよ」
そう言って、持っていた大きな傘をわたしに差し掛け、清潔な厚手のタオルを優しくかけてくれた。そのタオルの柔軟剤の香りとぬくもりに、一気に涙腺が緩みそうになる。
「立てるかい?」
そう言って、彼はわたしの目の前にそっと右手を差し出した。
だけど、わたしの足はすくんだまま動かない。さっきの恐怖で、差し出された大人の手がどうしても怖くて、ただ小さく震えることしかできなかった。
彼はそれを見ると、「ごめん、怖かったよね」と優しく眉を下げた。
自分が警戒されていると察したのだろう。彼はすぐに手を引っ込めると、無理に触れようとはせず、一歩引いて優しく微笑んだ。
「目の前のお店、僕の店なんだ。親御さんに連絡して、迎えが来るまで雨宿りなんてどうかな」
決して無理強いはしない、一歩引いた大人の距離感。
その誠実さに、わたしの張り詰めていた心の警戒が、ゆっくりと解けていくのが分かった。
「……はい」
消え入りそうな声で頷くと、彼は「よし」と小さく笑って、わたしを急かさないようにゆっくりと前を歩き出した。
案内されるようにして入ったその場所は、香ばしいコーヒーの匂いでいっぱいの小さな喫茶店だった。借りたタオルの温もりに包まれて、体を小さく丸める。
店内には誰もいなかった。
話を聞いたところ店を閉めようとしたときに、たまたまわたしを見つけてくれたらしい。
「好きな席に座っていいよ」と言われて、わたしはなんとなく一人になりたくなくて、彼がいるカウンターの真ん中の席に座った。
「マスターさん…なんですか?」
「まぁ一応ね、あまり偉そうに見えないでしょ」
そう言って悪戯っぽく笑った彼は、手際よくお湯を沸かし、棚からぽってりとした温かみのある陶器のカップを取り出した。
「紅茶、のめる?それともジュースとかのほうが良いかな」
「あ…紅茶で、だいじょうぶです」
不意に声をかけられて、わたしは肩を小さく揺らす。
目の前にそっと置かれたのは、一杯の温かい紅茶と、小さなミルクレープのお皿だった。
白い湯気の向こうで、透き通った綺麗な琥珀色の液体が優しく揺れている。
それと同時に、柑橘の爽やかで、どこか甘い上品な香りがふわりと鼻をくすぐった。
「わたし注文……」
「いいよ、今日は特別。僕がお店に引っ張り込んじゃったようなものだから」
掠れた声で拒もうとするわたしを遮るように、マスターさんは小さく首を振った。
ふと、わたしが先ほどまで体を震わせていたことを思い出す。
マスターさんはそんなわたしを心配してくれたのだろうか。
それとも、わたしが浮かない顔をしていたからなのだろうか。
フォークを握り、そっと崩して口に運んだミルクレープは、驚くほど甘くておいしかった。
続いて、冷えた心を溶かすかのように、紅茶を口いっぱいに含む。
飲み干せば、柑橘の爽やかな香りが鼻からふわりと抜けて、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。冷え切ってトゲトゲしていた心が、温かい紅茶の香りと甘いケーキによって、ゆっくりと溶けていくのが分かった。
初めて会った大人なのに、この人の前では不思議と、自分を隠さなくてもいいような気がした。
それほど、そのあたたかさとケーキの甘さが、張り詰めていた心を優しくほぐしてくれていたのだ。
そんな、温かくて穏やかな時間に安心しきっていた、その瞬間。
不意に、スマホの画面に浮かんだ『重いんだよ』という文字が、頭の中でフラッシュバックした。
――あ。
気づいたときにはもう、堰を切ったように、涙が溢れて止まらなくなっていた。
「おっと…これは失敗しちゃったかな」
「うぅ…、う…う~~…っ!」
マスターは困ったように眉を下げた。
だけど慌てる風でもなく、カウンター越しにそっと新しいペーパーナプキンを差し出してくれた。
その押し付けがましくない優しさが、かえって嬉しくて余計に涙が溢れてしまった。
泣きじゃくりながら、わたしは胸の奥に溜まっていた気持ちを、ぽつり、ぽつりと吐き出した。
彼に「重い」と拒絶されたこと。
わたしの想いが強すぎて、ついさっき失恋してしまったこと。
自分では普通だと思っていたことが、相手にとっては重いものだったということ。
言葉がまとまらず、何度も同じことを繰り返す、ぐちゃぐちゃに泣き叫ぶみっともないわたし。
それでもマスターさんは、決して嘲笑うことなく、途中で話を遮ることもない。
コーヒー豆を挽く手を少し休めては、時々、深く頷いて聞いてくれていた。




