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#01 カウンター越しのディスタンス

「マスター、すきです」


 性懲りもなく、わたしはあなたに告げる。

 夕暮れ時の喫茶店。常連たちの低い話し声と、静かなジャズが流れる空間で、わたしは今日もカウンター席のど真ん中に陣取っている。


 わたしがその言葉を口にするたび、目の前で水のはいったグラスが結露でじっとりと汗を掻き、カラン、と涼しげな音を立てる。まるでそのグラスが、わたしの割り切れない熱い想いをそのまま表しているようで、胸の奥のほうがちりちりと焦げ付く。


 届いてほしい。

 受け止めてほしい。


 そんな誤魔化しのきかない本気ほんねを伝えるために、わたしは両手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。制服の袖口から覗く拳に思わず力が入る。

 上目遣いで、まっすぐな眼差しをマスターへとぶつけた。けれどその視線はどこか震えていて、自分の未熟さを暴き立てられているようで少しだけ悔しくなる。


「……あのねぇ」


 ため息をひとつ。呆れたように息を吐くと、少し長めの前髪がさらりと額に垂れた。

 目元の優しい笑い皺にすこしだけその前髪がかかる。


 このカフェのマスター、高畑たかばたさん。

 わたしよりもずっと人生経験が豊富で、優しくて、穏やかなひと。

 すこしだけ気だるげだけど、物腰のやわらかい言葉使いが、乾いたわたしの心に心地よく染み込んでいく。

 茶色の髪を後ろで緩く束ねているけれど、そこからはみ出した癖っ毛が、夕暮れの西日に透けてぴょこぴょこと頼りなげに揺れているのが、なんだか無防備でかわいらしい。


 太い縁眼鏡の奥にある瞳は、わたしのまっすぐな視線に少しだけ困ったように揺れていて、やっぱりどこまでも優しかった。それがまた、いつもの「お店のマスター」の顔とは違って、わたしにしか見せない特別な表情のような気がして、嬉しくてたまらなくなるのだった。


「何度も言ってるけど、そういうことを大きな声で言うんじゃないよ」


 グラスを拭くクロスの動きを止め、わたしをあしらうかのように「だめだよ」と言う。だけど、その目がちっとも誤魔化さずにわたしの『本気』をまっすぐ見つめてくるから、胸の奥がキュッと鳴った。


「だって、好きなんですもん」

「そういう問題じゃないの」


 これ以上は踏み込ませないと言いたげな、突き放すような大人の壁。それは何度目であっても鋭いナイフのように胸の奥の一番柔らかい場所を突き刺していく。


 本当はわかっているのだ。法律とか、世間体とか、立場とか。わたしのような子供が思っている以上に、大人は張り巡らされた見えない境界線を気にしていることくらい。

 そして、わたしという存在が、彼の世界の恋愛対象から綺麗に弾かれていることくらい、嫌というほど。


 ――それでも。

「わたし、本気ですよ。マスターのこと」


 誤魔化しのきかない、トーンを落とした真っ直ぐな言葉。

 今度こそ、あなたのその心の壁を突き破りたくて、わたしは高畑さんをじっと見つめた。


「だから困ってるんだよ」


 高畑さんは眼鏡のブリッジを少しだけ押し上げた。

 想いを告げるたびに、心臓が耳のすぐ傍でうるさく脈打ち始める。この高鳴りがカウンターを伝って、あなたの耳に届いてしまうのではないかと、毎度おなじみの恐怖が背中を掠めていった。


「応えられない気持ちを向けられるのは、結構大変なんだから」

 

そう告げる彼の顔から、いつもの穏やかな余裕がふっと消え、困ったような笑みが浮かぶ。

——あ、また困らせちゃった。


 そう思った瞬間、胸の奥にチクリとした罪悪感が走ると同時に、甘い優越感がじわりとうまれていくのがわかる。この余裕を崩さない大人を動揺させられるのは、世界中でわたしだけだ。

 その支配欲にも似た歪な感情すら、わたしの恋の一部だった。


 どうして、こんなにもこの人を困らせたいのだろう。

 高畑さんの困った顔を見るたびに、わたしの記憶はいつもあのはじまりの雨へと引き戻されていく。けれど、その記憶の引き出しを開けるのは、もう少し先の話。今はまだ、この甘い空気の中に閉じ込めておきたかった。


「とにかく、このお話はおしまい。今日は何をご注文かな」


 ぱちん、と両手をあわせて強制的に話をリセットさせるように告げ、こほんと咳払いをひとつすると、高畑さんは相変わらず困り顔をしていた。そのかわり、その困り顔の奥で「このお店のマスター」の顔に戻っていた。


「……アイスティーを。レモンで」

「かしこまりました」


 慣れた手つきで、マスターは棚からグラスを取り出す。

 薄く透き通ったガラスに、氷がいくつか滑り込んだ。金属のジガーで量を測り、濃いめに出したアールグレイをそっと注ぐ。熱い液体が氷にあたって、カラン、と涼しい音が響いた。


 ミルクは入れない。ガムシロップの有無も、聞かれもしない。

 「すっきりしたアイスティーが飲みたい」なんて大人ぶってみせても、高畑さんはわたしの好みを全部知っている。だから言わなくても最初から、ちょうどいい甘さのシロップを入れて出してくれる。


 そういうところが本当にずるいと思う。

 思わせぶりな態度をとらないくせに、わたしの全てを覚えている。


 仕上げに、輪切りのレモンをひときれ。皮の黄色がグラスの中でゆらりと沈んで、それからゆっくりと浮き上がってくる。その一連の動きを確認するように一瞥して、それからこちらへ向き直った。


 ぱちりと目が合う。

 なんでもない顔をしているのに、「なんでもなくない」ような、言葉にならない引き止めるような熱が、彼の瞳の奥にほんの一瞬だけ宿る気がする。――ううん、きっとそれもわたしの気のせい。けれど、その気の所為ですらずるいと感じる。視線を逸らせばよかったのに、どうしても逸らすことができなかった。


「おまたせいたしました」


 はっと我に返ると、コースターの上にアイスティーが置かれた。

 そしてその隣に、頼んでもいないケーキの皿が滑り込んでくる。何層にも重なった綺麗なムースケーキで、いちばん上には、薄いチョコレートのプレートが一枚、ちょこんと乗っていた。


「あの…これ頼んでないです」

「知ってる、これはお店からのサービス」


 高畑さんはグラスクロスを馴染みの手つきで畳みながら、目元の笑い皺を少しだけ深めてみせた。穏やかな声で諭すように話し始める。


「ほら、キミって毎回ケーキをセットで頼んでくれるでしょ?」

「それは、ここのケーキがおいしかったから…でもそれって、普通じゃないんですか?」

「そうもないよ。だから常連さんへの特別サービス」


「……()()()()()、ですか?」


 差し出された『特別』という言葉の重みを確かめたくて、わたしは上目遣いで、彼の瞳の奥をじっと覗き込んだ。高畑さんは、また始まったと言いたげに小さく苦笑いするも、わずかに眉尻を下げて肩をすくめる。


 「さぁ、どうでしょう」

 とだけ、彼は呟いたのだった。その仕草は、まるで子供の他愛ない問いかけを上手にかわすみたいだった。その仕草も。わずかに笑うその表情も。胸の奥がさらに悲鳴を上げた。


 ずるい。わたしだけだと言わないくせに。否定もしない。

 これは、すこしでも私を特別扱いしてくれてるとみてもいいのかな。

 都合よく解釈しちゃダメだと自分に言い聞かせるけれど、加速する心臓の音はもう止められない。 きっとこれは彼なりの優しさだ。それなのに、どうして期待してしまうんだろう。


「……マスター」

「ん?」


「わたし、やっぱりマスターがすきです。わたし、何度でも伝えますから。」

「それは…勘弁してほしいかなぁ」

「勘弁しても!です!毎日でも!」


「あのねぇ…あーもう、困ったなこりゃ…」

 高畑さんは、降参するように困った顔で眉を下げる。

 それでいい。今はまだ、この恋が実らなくても。


 ストローで混ぜたアイスティーを飲む。

 高畑さんが最初から入れてくれたシロップのせいで、それは少しだけ子供っぽく、ひたすらに甘かった。フォークで崩したケーキは、あの日と同じ手作りの丁寧な味がした。


 いつかこの想いが実る日が来るのか。

 それとも、実らないままなのか。

 はたまた、わたしが大人になってもここに来続けるのか。それはまだ誰にもわからない。


 ただ、グラスの中でカランと音を立てた氷だけが、大人のあなたと子どものわたしの間の、もどかしい時間を静かに刻んでいるようだった。

お世話になっております、和澄です。

よろしければ、感想やお星さまなどで応援していただけると励みになります。

今後ともよろしくお願いします。

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