#03 雨上がりに芽吹く恋
「すみません、突然泣き出しちゃって……」
泣きすぎてすっかり目元が腫れ、差し出してくれたペーパーナプキンの箱はすっかり空になっていた。
こんなに泣いてしまうとは自分でも思っていなくて…。不甲斐ないと感じながら、
なんとかその涙をごまかそうとするもマスターは静かに、そのこんもりと積まれた山を片付けている。
「そっかぁ」
マスターさんは、わたしのまとまりのない話を、ただじっと受け止めてくれた。
すこし考えて、言葉を選んでいるのか。それとも、なにか伝えようとしてくれているのか。
わたしは、次になんて答えが返ってくるか不安でしかたなかったのだ。
「それはきみがわるいね」とかかな、それとも「それは重たいね」かな…。
沈黙だけが続くと、ドクン、ドクンと私の心拍は早くなっていく。
そして、その沈黙を破るかのように、マスターさんは声をあげたのだ。
「じゃあ、その彼とは合わなかったんだろうね」
ぴたり。
わたしはその言葉をきいて、思わず「え?」と声を漏らしてしまった。
マスターはこちらを見ると、小首をかしげながら「え?」と同じように返してくる。
合わなかっただけ?
「…、…それだけですか…?」
「うん?」
涙で滲む視界のまま、わたしは縋るようにマスターを見上げた。
あまりにも普通な答えで、拍子抜けしてしまったのだ。
「わ…たしが、悪かった…とか、もっとこうしてればよかったとか……」
「思わないかなぁ」
指先を口元にあてがいながら、ふむ、と考え事をするように、マスターさんはわたしの痛みを自分のことのように咀嚼してくれた。
カウンター越しに、マスターのきれいな手がわたしの空になったカップをそっと下げる。
その丁寧な手つきを、なぜだか目で追ってしまった。ティースプーンがカップに当たって、チリン、と小さく繊細な音が響いていく。
「だって、好きだったんでしょ? それなら一生懸命になるのは当たり前じゃない」
その言葉は、わたしを否定するわけでもなく、わたしの気持ちを間違いだと決めつけずに受け止めてくれるものだった。好きだった人に「重い」と言われたわたしの言葉も、その奥にあった気持ちも。
「まぁ、人によっては重いと取る人もいるとおもうよ。僕だって同じ立場だった時、そうおもっちゃうかもしれないし」
「えっ」
予想外の言葉に、思わずマスターさんの顔を見る。
「例えばの話ね」と、彼は困ったように笑いながら、言葉を続けた。
「でも、それと『キミが悪い』は、別問題だよ。好きのカタチなんて人それぞれだからね」
マスターは優しくわたしの目線に合わせるように、少しだけ腰を落とした。
それはカウンターを挟みながらの会話。今まで怖くて目を合わせることができなかった彼に思わず視線を向けると、その視線がぴたりと合った。
「誰かを大事に思う気持ちなんて、人によって違うんだから。毎日連絡を取りたい人もいれば、週に一回で十分な人もいる。そばにいたい時間がどれくらいかとかも。それはどっちが正しいってわけでもない」
「……」
「キミなりに一生懸命だったのなら、それでいいじゃない」
マスターさんは少しだけ照れくさそうに笑って、それから、諭すように優しい目をわたしに向けながら「要するに、怖がらなくていいってこと」と言葉を続けた。
「失敗したからって、そこで終わりにしちゃうのはもったいない。キミはまだ若いんだから」
「……おじさんみたいな言い方ですね、それ」
「まぁ、君よりおじさんだからね。長く生きてる分、傷つき方や痛みを知っているつもりだよ」
優しい声が、穏やかな声が。
わたしの心をそっと包んで、背中を押してくれる。
「自分の気持ちを悪いものだと思わなくていいよ。それだけ誰かを大切にできたキミは、ちっとも間違ってない」
その瞬間、ドクン、と胸の奥で今まで聞いたこともないような静かな音が跳ね上がった。
もしも、次の恋があるのだとしたら。
前の彼氏みたいにわたしの気持ちを「重い」と切り捨てる人じゃなくて――こんな風に、わたしの気持ちを否定せずに受け止めてくれる、この人みたいな人だったらいいのに。
そんな叶うはずもない淡い願いが、温かい紅茶の湯気みたいに胸の奥からぽつぽつと湧き上がってくる。
カウンターの向こうで言われた、あたたかな言葉。
カップを扱う丁寧な仕草。眼鏡の奥の、優しそうな目元の皺。
困ったような眉。少し長い前髪。コーヒーの香りが染みついたシャツ。
この人が言うと、もう少し頑張ってみようと思える。
この人が言うと、未来が少しだけ楽しみになる。
初めて会ったはずなのに、どうしてもこの人から目が離せなくなってしまった。
そのとき、マスターが先ほど母に連絡してくれていたことを思い出した。
突然扉の向こうからチリンっと音が鳴る。振り返れば、私の名前を呼びながらお母さんがこちらに向かってきていたのだ。
「――っと、お迎えかな。よかった、雨はもう止んだみたいだよ」
窓の外に目を向ければあんなに雨が降っていたのに、すっかりと止んでいた。
かわりに窓には水滴がついて、夜の光を吸い込んでいるようだった。
お母さんとお話をして、玄関先で分かれる時。
このままお別れするのがなんか嫌で…。ふいにマスターさんに振り返って、おもいきって声をかけてみた。
「あの…雨宿り、ありがとうございました。…また、来てもいいですか」
「もちろん、いつでもお待ちしてます」
柔らかな笑みを見せながら、頷いてくれる。
この時はまだ『恋』と呼べるものではなく、ただ、もう一度ここへ来たいと思っただけだった。
明日も、その次の日も、またこの人に会いたい。ただ、それだけだった。
それからだった。
心の雨宿りをするように、わたしの通う日々が始まったのは。
学校が終わると制服のまま、夕暮れのやわらかな光が差し込むこの喫茶店に、吸い寄せられるように足を運んだ。
最初は、ただあの日のお礼が言いたくて。
次は、昨日のあの笑顔がもう一度見たくて。
そのうち、わたしの話に困ったように眉を下げる顔まで、見たいと思うようになった。
いつも穏やかで何を言っても余裕のあるこの人が、わたしの言葉にだけ少し返事を迷う。
その瞬間が、なぜだか嬉しかった。
わたしがここにいることを、ちゃんと意識してくれているような気がしたから。
そうやって少しずつ、マスターさんのいろんなところを覚えていった。
学校で面白いことがあったとき、最初に思い浮かぶ顔があることに。
嫌なことがあったとき、一番に話を聞いてほしいと思う相手がいることに。
それが全部、マスターだった。
からりと鳴ったグラスの氷の音を聞きながら、冷たいアールグレイを一口すする。
琥珀色のガラス越しに見えるマスターの背中を見つめながら。
火れた胸を冷ますように、わたしはぼんやりと思った。
あぁ、わたしは、この人が好きなんだと。
こんなこと言ったら、困っちゃうかな?
あぁでも、そんな困った顔も見てみたい。
だからあの日、喉の奥で震えていた言葉を、初めてまっすぐに伝えたんだ。
そして今日も、わたしはカウンターの向こうの彼に、同じ言葉を伝える。
「好きです、マスター」
そう告げると、彼は今日も、あの日と同じように困った眉を下げた。
お世話になっております、和澄です。
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