7節 バーの店主
「あと、五分だけ…」
ベンチで俯きながら、小さくぼやく。
月はまだ明るい。
風も涼しく、少し寒い。
寝るのに適した環境…
「――って、どこ?」
いつの間にか戻った意識に不審感を覚えながら、やっとのところで身を起こす。
さっきまで、確か。
記憶が正しければ、追いかけられていたはず。
そして、この公園に戻ったんだ。
「そうだ。あいつらから…うん?いない…?」
おずおずと周りを見渡すが、三人の誰一人見つからない。
見当たらない。
この公園にあるのは、この街で初めて感じる“静寂”だけ。
「そもそも、今日は半月じゃなかったっけ?」
星一つない真っ暗な空を見て、自信無げに呟く。
大きな満月だけが、見違えるほど――いや、見違えないほどに輝いている。
「にしても寒いな……さっきまで少し暑かったのに――」
《――え…子供!?》
独り言の途中、初めて人が目に入る。
さっきまでは…いや、違う。
ずっとそこにいたであろう、少年が座っている。
明るい茶髪で、姿勢を低くして。
「おい、君!」
急いで彼に近づく。
何も聞こえなかったかのように、彼は平然と地面を見続ける。
《なんだ、この子?》
「ここで何してるんだ…?お母さんが心配するだろ?」
「…」
何も返さない。
何もしない。
奇怪ともいえる態度で、地面を見続ける。
今気づいたが、彼の右手には小さなチョークが握られている。
学校から持ってきたのだろうか?
「何を…描いているんだ?」
少し、嫌な予感を感じながらも訊く。
彼はそれに初めて反応した。
地面を、左手で指差した。
『Soledad(孤独)』
絶句。
言葉を失った。
それに続いて、大きな恐怖を感じ始めた。
「お、おい!!どこに行った!!」
気づけばあの子供はいなくなっている。
消えている。
《や…めろ……》
一息に、僕は逃げ出そうとした。
しかし、何かに足を取られている。
闇。
奥の見えない、漆黒な闇。
気づけば僕の周りを覆っていた。
「やだ……やだあああ!」
喚きながらも、逃れようとした。
しかし、動く度に、闇が僕を更に強く締める。
《クソ……》
意識が遠のく中、先程の少年が垣間見えた。
何かを指差していた。
僕を指差していた。
嫌な笑顔で。
ムカつく笑顔で。
『――早く、帰って来いよ』
※※※
「んーーーっ!!」
激しいうめき声とともに、目を大きく開ける。
右目には涙の跡を感じた。
泣いていたのだろうか。
みっともない…
ぼんやりとした意識で、周りを見渡す。
小さな部屋の、隅。
扉から見て真正面。
天井のランプから見て真下。
部屋には誰もいなくて、僕は…
《――あれ……動けない!?》
視線を落としてみると、自分が椅子に縛られていることにやっと気づく。
途端、慌ててそれを解こうとした。
「んーッ……ん、んーーッ!?」
同時に叫ぼうともしたが、唸り声しか出なかった。
口もテープのようなもので封がされている。
《いや、ここは落ち着くんだ…》
無意味な抵抗をやめ、唯一塞がれていない鼻で深呼吸をした。
《一旦、状況を整理だ…》
確か、僕はあの三人に追いかけられていて…
最後に何があったのかを覚えてないが、この様からして、
結局逃げ切れなかったのだろう。
そして、意識を失った挙句、この部屋に連れて来られた。
《めでたしめでたし…ではないな》
大体、あれからどれくらい経っているのだろうか?
人を運ぶって一筋では行かない作業だと思うし、いくら夜であっても、警官は一定数いるはず。
実際に確かめようと、時計を探した。
が、部屋のどこにも見当たらない。
それだけでなく、部屋の窓がすべて閉まっていたせいで、
昼なのか夜なのかすら分からない。
為す術もない。
そう思い始めていた頃。
――廊下から音が聞こえ始めた。
足音…?
一人、二人…
ああ、もう分からん。
取り敢えず三人以上はいる。
話している。
しかし、その内容は聞こえな…
「――ギイイイィィ…」
突然、僕の正面にある、この部屋唯一の扉が、耳障りな音を立てながら開いた。
その中から、二人の人影が現れた。
「お、もう起きたか」
無造作に、平然と、一人の男は言う。
おそらく彼とは初対面。
ぼさぼさのくせ毛に、明るい茶色の目をした男だった。
余裕そうな笑みを湛えながら、こちらを眺めていた。
その後ろには、体格の良い――あの三人のうちの一人が、ギリギリだが見えた。
顔はぼんやりとしてだったが、頭の後方にぶら下がる三つ編みからして、頬に傷がある方だろう。
非常に変な髪型だ。
彼は僕と目すらを合わせず、部屋の外から扉を閉めた。
《やはり、あいつらだったか…》
改めて、自分の弱さを、敗北を思い知った。
と、同時に、くせ毛の男はどこか怪しい雰囲気を漂わせながらも、
ゆっくりと僕の方に歩み寄る。
「ほう…」
僕を吟味するかのように、数秒間見詰めた後。
「お前ら、こんなガキに手こずったのか?」
鼻と口の両方で、大きく、せせら笑った。
僕を小馬鹿にするかのように。
軽い口調で廊下に向かって。
僕はその発言に、唖然とした。
「ああ見えても、案外速かったんすよ」
廊下から誰かが答えた。
同じく、笑みを含めながら。
その低い声からして、恐らく禿頭の男が言ったのだろう。
その答えに、くせ毛の男は微笑んだ。
《はあ…?》
腹が立ったのもそうだが、それより、この余りにも幼稚で、
上品さの欠片もない無礼に対して、絶望とも言える呆れを感じた。
何ていうのか、せめてならもっと悪っぽい顔をして欲しかった。
こんな清々しい笑いには、流石の僕も引いた。
「ったく、なんであんなに抵抗したんだ?」
彼は、口角を上げて尋ねた。
なんて身の程知らずだ。
何かを言い返そうと、僕は声を上げた。
「んーーッ!!」
が、そうだ。
今、喋れないんだった。
男はその様子を面白そうに見た。
「――そうか、それじゃ話せないな」
そう言って、颯爽と、口のテープを剥がした。
「痛っ!」
衝撃に少し、情けない声を上げた。
でもそんなことより、やっと口呼吸ができることへの喜びが遥かに大きかった。
「で、なんであんなに抵抗したんだ?」
剥がしてもなお、彼は再び同じ質問をする。
態度を一切変えずに。
口呼吸ができると言う快感を阻害された僕は、今度こそ、苛立ちを隠しきれず。
「あんなことされて抵抗しないヤツがいるとでも?」
と、少し真面目かつ、自分にしては攻撃的なトーンで返してしまった。
立場を弁えることなんか、とっくに忘れたように。
「あんなこと?」
口調の変化を毛ほども気にせず、彼は楽しそうだった。
実にムカつく。
「随分な物言いのようだが、あいつらに何かされたのかい?」
明らかに僕を小馬鹿にした口調で付け加える。
《なんだコイツ?》
僕はすぐに何かしら言い返してやろうと思った。
“凄くムカつく”と思った。
が、黙り込んでしまった。
《何も…されてない…》
振り返ってみれば、確かに、彼らは僕に何の危害も与えなかった。
考えにくいことだが、自分が先走った可能性があったのかもしれない。
被害妄想が――警戒心が過ぎたのかもしれない。
「あいつら曰く、『話を聞く前に、急に彼が走り出したので、しょうがなく追いかけてやった』ってよ」
音色を変えて、男たちの口調を真似る。
茶色い目で、僕をじっと見詰めながらも。
「いや、何もされてないのは認めますけど、あんな状況だったら誰だって真っ先に逃げます」
彼を鋭く見詰め返し、少し早口で言う。
一部は非があったとしても、まるで僕だけが悪かったかのような言い様は許せなかった。
「確かに。あいつらには近づきがたい部分があるのも事実だね」
肩を竦めながら、彼は頷いて言う。
予想外にも、僕の発言を肯定して。
「……」
普段なら、彼みたいな、敵か味方かはっきり分からない立場の人と話すのは気味が悪い。
なのに、なぜか今回、彼との会話には拒絶を感じなかった。
不快感を感じなかった。
ムカつくけど。
《…これもある意味、気味が悪いな》
「ところで、君、私のことを探しているんだって?」
急に少し真面目な口調で、先程の会話とは脈絡のないことを彼は言った。
僕は些か、きょとんとした。
こんなにも、"私"って言い方がしっくりこない人は久しぶりに見た気がする。
「…探すも何も。
そもそも、あなたが誰なのか知りません」
僕ははっきりと、素で返した。
「いーや。君は確かに、私を探していた」
彼はしつこく言う。
それには少し、ムッとした。
「だから、知らねぇって…」
《――いや、ちょっと待った》
確かに、彼のことは見たことないし、どこの誰かも分からない。
正直、できれば関わりたくもない。
だが、彼はおそらく、本当に。
多分、僕の探している人なのかもしれない。
「まさか、あなたって…」
目をちょっと細めて僕は尋ねた。
「そう。私が、君の探してたバーの店主…」
やはり。
「私は、ジュリオ・プルモンだ」
彼は全く同じ口調で、躊躇いなく答えた。
※※※
実は昨夜、ロミル橋にて、こんな話を耳にした。
――バーの店主は高層地区から引っ越してきたらしい。
――なんで?
――さあ。でも娘を亡くしたと聞いたことがある。それが関係しているのかも。
それを、僕は店主の、ジュリオの人格の想像手段として使っていた。
けど、思いの他――現実と推測はかけ離れたものだったようだ。
《この男があのバーの店主なのか…》
まるで人が変わったかのように、僕は静まる。
先程までの態度が、どこかへ逃げたかのように。
今更立場を弁えたかのように。
それでも、僕はジュリオの方を凝視していた。
右目の上に黒子。
黒髪で、白髪がほとんど見えない。
しかし、手にはシワができ始めていて、どこか疲れ切った雰囲気があった。
何より、彼の瞳は、そこら辺の人のそれとはどことなく、一味違う気がした。
また、彼は予想より年老いてはいないようだ。
せいぜい四十代前半といったところか。
あるいは、話し方が若々しく感じさせるのかもしれない…
「何をそんなジロジロ見てんだ?」
彼の言葉に、びくんと震えた。
ジーンズって言うんだっけ。
市場では人気を集めているらしいズボンのポケットに手を入れたまま、彼はこちらを見た。
僕はそれに、目を逸らした。
「どうした。今更保身的になって?」
全くその通りだ。
そう言わざるを得ないのは分かっている。
――だが、どうしてもこの状況はごまかせない。
彼の姓である――プルモン――は、“高層地区”にある都市――プネモナス――の出身者にしか与えられない姓だ。
つまり、噂は本当。
…彼は“特権階級”。
この国の、上級階級なのだ。
本来なら、瞬時に儀礼を行わなければいけない。
そんなはずだが、見てのとおり、今はそれどころじゃない。
《でも、彼は確かに…》
彼は何であろうが、あのバーの店主。
ロメロがくれた手紙にあった、あのバーの、ロメロの居場所を握っているのかもしれない、あの店主。
僕はその事実に、つい、理性を失ったのか。
「と言うことは、もしかして……」
まるで、過去の経験から何も学ばなかったかのように、思わず口にしてしまった。
口走ってしまった。
「“ロメロ ・オンブリゴ”って人のこと、知っているんですか…?」
《……》
なんて馬鹿なのだろうか。
なんて幼稚で、単純なのだろうか。
なんて、どうしようもないやつなのだろうか。
そう嘆き始めた。
緊迫した空気を覚悟した、その時。
「…おいおい、」
彼は…
彼は、全くと言っていいほど、それを気にする素振りを見せなかった。
寧ろ、自分から話題を変えた。
変えてしまった。
変えやがったのだ。
「会話に必要な“礼儀”ってもんがあるだろ?
"名乗ってからが会話"。
私はさっき名乗ったから、次は君の番」
良くも悪くも、彼はいつも通り言った。
僕を小馬鹿にして、侮るかのように。
「礼…儀?
若者を気絶させ、椅子に縛りつけるのが礼儀正しいっていうんですか?」
急に生まれた安心感により、少し辛口のツッコミを入れた。
彼はそれに、薄い笑みを浮かべた。
「…それもそうだな。」
少し考えてからそう言い、男は近づいた。
そして、意外にも僕を解いた。
何も言わずに。
正直、立ち上がって彼を思いっきり殴って、一矢報いたいところだ。
しかし、扉の向こうには自分より強い連中がいることを忘れてはいけない。
返り討ちに会うくらいなら、ここで彼に従った方が良い。
無謀なことは、しない方がいい。
男もそれを分かっていたからなのか、テープの時と同じく、
躊躇いなく縄を解いた。
《やっぱ、こう来なくっちゃ…》
自由になった四肢を抱き締めたいくらい、僕は快感に満ちた。
が、妙な動きは警戒を高めると、そう心得ていた。
だから、座ったままでいることにした。
一方で、彼は満足そうに、先程立っていた扉の脇に戻った。
そして、壁に寄りかかった。
その時だった。
彼が縄を束ねていた時、一瞬だけだが、彼の手首が露わになった。
そこには、中央に✕印のついた――肺型の印があった。
《✕印…》
そこで突然。
――過去の、微かな記憶が蘇った。




