6節 つかれた
「半月……」
薄暗い空にぽつりと浮かぶ白い点を、のんびりと眺める。
決まった軌道をコツコツ進みながらも、僕たちを欠かさず照らしてくれるお月さま。
…それに比べて僕ってやつは。
晩飯を食べて、早速ダラダラしている。
軌道というか、もはや歩みを止めて…
《って、ぼーっとしている場合じゃ…》
いや、もはやぼーっとしていいのかもしれない。
少し休んで、いいのかもしれない。
今日は色々ありすぎたんだ。
本当に色々……
「はぁ…」
黄昏れるかのようにして、僕は大きな息を漏らした。
※※※
時刻は午後6時半。
まだ奥に薄っすらと光が見えるが、実質夜。
人々も帰宅し始め、大通りが満員状態。
暑苦しい人混みを歩くことに少しの抵抗を感じ、主要道路から外れた場所のベンチに座っていた。
昼飯の時と同じ広場のようだ。
名前は確か……いや、忘れた。
こちらからも、メリク湖に映る街中の光がはっきりと見える。
眠らない街。
――とまでは行かないが、十分に明るい。
街灯もよく設計されているおかげで、いわゆる“盲点”が少ない。
あったとしても、茂みや木々の裏くらいだ。
普通なら嬉しいことだが、僕にとっては、そうでもない。
警察の目が届き易い場所なんて、迷惑この上ない。
狼の群れに放り込まれた羊のような気分だ。
《放り込まれたんじゃなくて、自分から入ったわけだが……》
うん?
結局何が言いたいかって?
そりゃ、もちろん。
今日も、あの橋に戻らなきゃいけないってこと。
今晩も――ロミル橋で泊まるしかないってことだ。
「ああ…勘弁してくれ…」
うっすらと、ぼんやりとしか見えない城壁。
あいつのせいで、僕は苦労をしている。
許可書なんて物さえなければ…
「――なーんて、言い訳も大概にしなきゃ」
言い訳を言ったところで現状は変わらない。
それでも、ちょっとは許して欲しいものだ…
荷物を持って、立ち上がった。
かつては白かったのだろうかと思いながら、茶色く、薄汚れている布で手を拭いた。
「…すっきりした〜」
公衆便所を後にしながら、清々しい気分でベンチに戻った。
にしても、肩痛いなあ…
ずっと荷物を持っていたからだろうか。
っていうか、膝も少し痛い。
疲れている。
それは…なぜだろうか?
「――ニャー」
ベンチに戻ると、思わず足を止める。
見知らぬ者に、席を先取りされていた。
《まあ、この場合人ではないけど…》
要するに、そこで猫が寝ていた。
黒い模様のついた、白い猫が寝っ転がっていた。
僕を横目に、ぐったりと。
「ちょっと、隣、良いかな?」
彼(下手したら彼女)の様子を窺いながら、ベンチの空いている部分に腰を下ろす。
しかし、彼は見向きもしない。
「君も、疲れてるんだね」
この特殊な光景に微笑を誘われながらも、小声で呟く。
それでも動じず、彼はその毛深い背中を僕に向ける。
《もしかして…》
僕は手を伸ばそうとしたが。
「シャーー!!」
「――ですよね〜」
手を引っ込めるようにして、苦笑いをした。
猫は姿勢を全く変えずに、ただ警戒心だけを強めた。
「やれやれ…」
小さなため息をつき、背筋をゆっくり伸ばす。
それにより印が一瞬、月光に照らされて浮かび上がった。
言われてみればコイツも迷惑だ。
綺麗に保つのも、隠し通すのも。
そもそも存在が。
《特に、偽ノタムである僕は…》
そうやって、毒にも薬にもならないような思考を巡らせていた最中。
「シャカシャカ…」
何かが、隣にある鞄に触っている音がした。
言うまでもなく、その正体は猫だった。
「おい、どうした?」
先程まで無関心だった彼は、好奇の視線を向けながら、
少し鋭い爪で僕のバッグを引っ掻いている。
なんだろうと、しばらく彼を凝視し、数秒の後、ようやく原因を理解した。
鞄からそっと、それを取り出す。
「少ないけど、どうぞ」
出された食べ残しを前に、彼は怪訝な視線を送る。
「くれるのか」とでも言わんばかりに、僕と目を合わせたが、それが奪われるのを恐れたのだろうか、
時折こちらを窺いながらも、もぐもぐと、それを食べ始めた。
痩せている体に、傷のある足。
常に警戒している視線。
彼の様子は僕にとって少し、“必死”に感じた。
いや、必死というより“懸命”が近いのだろう。
慣れない環境で、どうにか一人で。
寒い夜を、耐えて。
何より、苦難を乗り越えながら、生きている。
それがなんだか、僕と似ている気がした。
凄く、似ている気がした。
でも、違う。
少し、違う。
あの猫や、朝の少年と比べて見るとやはり。
――僕はラッキーだ。恵まれている。
五体満足であるだけでなく、心の方もまだ無事。
まだ、頑張り続ける理由と度胸がある。
《僕より酷い人はいくらでもいる》
それを忘れてはいけない。
「ニャォー」
早速食べ終わり、猫は大きなあくびをする。
それを見て、僕は微笑む。
「そろそろ、帰るか…」
気づけば真上まで来ている半月を、ほんの少し眩んだ目で見詰めた。
今日はもう帰って寝よう。
明日から捜索再開。
一ため息ついて、ベンチを立とうとした。
その時だった。
「そのぉ…すまない」
小さく、でも結構低い声が僕を呼び止める。
《誰…だ?》
隣を見ると、猫はすでにいなくなっていた。
男から逃げたかのように。
危険を察知したかのように。
「きみぃ…店主を探しているだろ?」
は…?
店主…
店主ってバーの?
少しずつ近づいて来る彼に、自然と足がすくんだ。
明らかな敵意が無いものの、その体格は威厳に満ちていた。
「あなた、誰ですか?」
不安のあまり、少し強い口調で訊く。
「えっ?あ、いや…」
十数コドほど近づいて初めて、その顔が見えた。
――右目に眼帯。
黒髪で高身長。
あのバーにいた三人の一人だった。
「俺たちもぉ…店主を探している」
大きな体に合わないくらい、だいぶ弱々しい。
その態度を見て、なぜか安心した。
「質問に答えてください。あなたは、誰?」
全く噛み合っていない会話に終止符を打つ勢いで、毅然と訊いた。
何の反応も見せずに、彼は進み続ける。
「あなたたちと協力する気はない。それ以上近づくな」
無意識に後ずさりながらも、より強い口調で言う。
念のため、左方を確かめた。
「……あなたたちが何をしたいのか知らない。でも僕は…」
説得――ではないが、言葉の交渉を試みる。
それでも無理なら…
「…僕と協力したら……きっと、面倒臭いことになります」
きっぱりと、言葉を紡ぐんだ。
嘘をつかずに、寧ろ、ある程度の善意を包含して注意をした。
少しの間、彼は足を止める。
やっと僕の声が届いた。
やっと聞こえた。
…そう思ったが、月に照らされる彼の顔――変わらず悠然と僕を見詰める顔を見て、違うと解った。
「そうか…」
彼は僕を見下ろして、呟く。
聞こえないくらいの声量で。
「…それでも、ついてきてもらう」
途端、彼は追いかける姿勢に入る。
やはりだ…
《…先に走り出して正解だった》
…しかし、どうするか。
どこに向かおうか。
どこに、逃げようか?
「はぁ…はぁ……」
取り敢えず、来た道は覚えておいてよかった。
出口から真っ直ぐ進んで五つの角。
そのうち、三つが行き詰まり。
本当に覚えておいて、正解だった。
後ろから追いかけて来る彼と僕では、十分な距離がある。
電柱二個分と言ったところだ。
二つ目の角を曲がって、更に距離が開く。
道路にはすっかり人がいなくなっていった。
丁度良い。
石畳の段差と、建物の影以外の邪魔はない。
《行ける。逃げ切れ…》
「――おいおい。何をそんなに急いでいるんだ?」
マジかよ…
髪の毛がない。
今回は禿頭――ジュニオールの方に出くわしてしまったようだ。
《間が悪い…》
すぐに引き返そうと、後ろを向く。
はぁ…
しかし、そこにも人影が見えた。
頬に傷のある、三人目の男だ。
「チッ…」
小さく舌打ちして、また走り出す。
右の小道に飛び込み、別の通りへ抜ける…
「痛っ…」
足を軽くひねってしまった。
でも、問題ない。
まだ僕の方が早い。
まだ、僕が優勢だ。
行き詰まりを避けながら、角を何回か曲がる。
回数を重ねれば、次第に声も遠くなり、彼らは僕を見失っていた。
走りが数少ない特技である僕に、到底勝てなかったのだ。
「ハ、ハハッ!」
勝ち誇った笑みを浮かべ、僕は角を曲がる。
今回こそ、完全に…
って、あれ?
ベンチ…なのか?
また、か…?
……この街ってベンチ多いんだな。
メリック湖が綺麗に見えるベンチが…
「――って、最初の公園に…戻った…?」
上擦った声で、僕は呟く。
パチパチパチ…
振り返れば、ジュニオールが拍手をしていた。
その後ろで、もう二人がうっすらと見える。
「また、会ったな」
気持ちの悪い笑顔で、僕に近づく。
そうか…
誘導されていたのか…
牧畜犬に追い込まれる羊のように。
《掌で踊らされていたってか…》
はぁ。
まあ、三対一だし、分かってたことだ。
星空を高く見上げ、再びため息つく。
《みんな、今頃、何やっているんだろうな…》
寝てはいないかな…
祭の準備で忙しいのかな…
僕は…
どうしようもない思考に耽っている間も、三頭の大ライオンは近づいて来る。
その大きな体で、星々を隠しながら。
「は…ハ…ハハハ…ハハハ……ハァ…」
《まだ何もしてないはずだけどなあ…》
少しずつ歪んでいく視界。
頭から徐々に力がなくなっていくのを感じる。
僕は、本当に。
本当にもう…
「――つかれた」
そう呟いて、意識を失った。




