5節 バーの中のバー
この話は(特別な場合を除いて)毎週水曜日更新とします。時々、月か土もするかもしれません。
「ここか…」
いくつかの建物の並びを前に、呆然と呟く。
間違えてないよね…?
ここまで来て違うとか、洒落にならん。
地図と紙切れを交互に確認しながら、僅かに身震いを感じた。
うん。
ここで間違いない。
長い旅の末、僕はようやくあのバーに到着したのだった。
※※※
建物自体は正直それほど大きくはない。
道中にあった花屋と、大して変わらない。
…まあ、一つ。
一つだけ言うなら、外観は特徴的だ。
入口の真上に掲げられている、「Bar de Bares」という大きな看板や、
その横に佇んでいる小さな立て看板が周りの建物とは、少し違った味を出している。
端的に言えば、凄く上品だ。
下手に派手とかではなく、どちらかと言えば質素な綺麗さだ。
「バーの中のバー…」
――要するに、最上級のバー。
皮肉ながら、その名前が妙に見合っているように思えた。
《って、いつまでダラダラしてるんだ…》
頭を強く横に振って、大きなため息をつく。
腹をくくってから、僕は中へと向かった。
「チリーッ」
ドアを開けると同時に、鈴の音が鳴り響く。
《…なんだこれ?》
錆びているのだろうか。
普通の甲高い音が小刻みに弱くなるような音がする。
《てか、ここって案外…》
「――いらっしゃい」
その声を聞いて、すぐさまカウンターの方を向く。
店員…いや、バーだからバーテンダーか。
とにかく、カウンターにいた、染めたのかと思うほどの黒髪の男がそう歓迎してくれたのだった。
歓迎と言っても、あまり元気は感じられなかったが…
「席はご自由に」
白シャツの上にウエスコートを着ていた彼は、非常に落ち着いた口調で言う。
三十代半ばくらい。
――僕の直感はそう言ったが、もう少し若いのかもしれない。
胸元に“ラウル”と言うタグが付いていたが、それが名前なのだろうか?
「……あいつ、新規か?」
カウンターから少し離れたテーブルで、誰かがひそひそと話すのが聞こえる。
そちらを振り向けば…
《…はあ!?》
なんと、四コド(二メートル近く)もありそうな大男が三人も隣り合って座っていた。
そのうち、僕に好奇の視線を向けたのはハゲ……禿頭の人だった。
「やめとけよ、ジュニオール…」
その右隣の、目に大きな眼帯をつけた男が小さく注意する。
《あの三人、確かどこかで…》
何かを思い出せる前に、彼らと目が合ってしまうことを恐れ、視線をカウンターに向けた。
そこには椅子四脚が整然と並んでおり、僕は一番近い左端の椅子に座った。
カウンターとは別に、椅子がそれぞれ三脚備わる、三台のテーブルが置かれている。
男たちがいたのは、入口から見て一番奥のテーブルだった。
広い。
こうしてみれば、案外広いのかもしれない。
カウンターに着くと、顔を手の甲に乗せ、小さくため息をついた。
しばらくその姿勢で、僕は天井に吊るされているオイルランプを眺める。
気のせいでなければだが、あの三人の男たちは確か、少し前に見たはず。
あの公園からバーに再出発したとき、遠目から三つの大きな影を見た。
デカいなーとか思いながら通り過ぎたが、どうしたことか。
でも、こちらのことは覚えていないみたい。
個人的に、それで良い。
あまりガラが悪い人たちでもなさそうだけど。
というか、このバーは本当に綺麗だ。
埃一つ落ちていない。
内装も悪くない。
それに壁も、テーブルも、椅子も…
――全てが完璧と言えるほど清掃されている。
ただ…一つだけ。
何かが、引っかかったのだ。
「――注文は?」
漆黒のバーテンダーが、男たちを尻目に尋ねる。
注文…
別に、何かを食べに来たわけじゃ…
いや、でも何も注文しないのは行儀悪いな…
少し考えてから、姿勢を変えずに答えた。
「一番うまいやつ、一杯お願いします」
その曖昧な返答に、彼はケチを入れず頷く。
いつもより低く、無駄に渋い声で頼んだ僕は、少し満足げに微笑んだ。
《あれ、ちょっと待って…》
念のため財布を取り出したが、やはり。
酷い金欠だ。
「――なるべく安いやつで」
目を逸らしながら、小声で加える。
「はいよ」
すでに背を向いていた彼は、僕を見下ろしながら言った。
その物静かな態度に、不思議に違和感を抱いた。
「…で、お前らはどう思う…?」
後ろから、禿頭――ジュニオールの声が聞こえる。
口調から、彼が気の強い人であると察した。
「判断するにはまだ早いだろ…」
その左隣の、頬に大きな傷跡が目立つ男が淡々と返す。
こちらは腹が据わっているようだ。
さっきから賭け事でもしながら、まるで誰も聞いていないかのように、悠然と会話をしている。
入店以来、僕を気にする素振りを見せずに。
「ほっといておけば問題ない…」
眼帯の一人が、少し気弱に言う。
見た目に反して、若干線が細い。
《……種類豊富だな》
聞き耳を立てながらも、僕はバックバーで並んでいるいくつかの瓶を眺めていた。
金の家、虎の爪、神聖な光。
小学生が考えたのかって思ってしまう銘柄が、頭の中に入ってはすぐに流れて行った。
「こちらが注文です」
店員はグラスたっぷりに入った酒を、さらっと僕の前に置く。
そして感謝する間もくれず、素早く離れていった。
薄黄色い液体からふんわりとした泡が、ゆっくりと這い上がる。
表面についている水滴を少し凝視してから、僕はグラスを手際よく顔に近づけた。
美味そう。
喉が特別渇いているわけではないが、分かる。
これは紛れもなく……
「ゴホゴホッ!?」
――不味い。
その声が漏れる勢いで、僕の心は叫んだ。
《苦い……想像を絶するほどに》
僕は少し落ち着いてから、口を拭いた。
早まるな。
酒ってそんなに勢いよく飲むもんじゃない。
だから、試しに、もう一度…
グラスをゆっくりとカウンターに置く。
ん……
マシだが、美味しくはないな。
無駄に高かった期待との差に幻滅しながらも、最後の一口までは飲んだ。
その間、店員は目もくれずに作業を続けていた。
彼だ、きっと。
彼がこのバーを綺麗に保っているのだろう。
僕はグラスを一つずつ確認する彼を見ながら少し感心した。
もちろん。
もう少し、サービス心があってもいいと思うけど。
「はぁ……」
僕を先んじるかのように、誰かのため息。
深くて、小さい嘆息。
僕はおずおずと、視線を右に向ける。
おじさん。
…いや、おじいさん?
カウンターの右端に見知らぬ男がいたと気づき、咄嗟に息が詰まる。
は?
いつの間に…?
な…なぜ、気づかなかった…
男はまだ半分以上の酒が残っているグラスを見詰めながら、
まるで時間が止まったように動かない。
年齢はおおよそ六十。
――いや、違うのかもしれない。
そのラウンジスーツ以外はよく見えない。
彼の座っている席は丁度光が弱いのだ。
《初めから…いたのか?》
視線を自分の前に戻し、手で横顔を隠す。
彼から、奇妙な“威圧感”を感じた。
同時に、後ろからもコソコソと三人の会話が聞こえた。
所々、話題が僕になっていた気がする。
《さっさと終わらせよう…》
色々不安になり始め、僕は拍車をかけることにした。
「ゴホンッ」
拳を口に当てて、軽く咳払いする。
店員はそれに気づいて、視線を寄越す。
「店員さん、ちょっといいでしょうか?」
彼はゆっくり近づき、「どうしました?」と神妙に訊き返す。
彼の暗い目を直視しながら、僕は口を開ける。
「店主…
――このバーの主っていらっしゃいますか?」
彼は数秒間、じっくりと僕を見詰める。
敢えて理由を言わなかった僕に対し、何か疑問を抱いたのだろうか。
その間が随分長かった。
「……いえ、今は不在です」
彼は少し、か細く答えた。
どこかまごつきながらも。
一瞬静まった後ろの声も、彼の返答で再び聞こえてくるようになった。
「数週間前から、ずっと…」
彼は小さく付け加える。
「そうですか…」
……ん?
僕が今、どう思っているかって?
そりゃもちろん……
――幻滅だ。
彼の様子を見れば、店主の不在がしばらく続いているようだし、いつ来るのかも不明。
だったら、彼が来るまでこのバーに通れば?
なーんて、そもそもそこまで金が持つのだろうか?
かろうじて、持ったとしても、その間に警察に見つからない確証はあるのか?
そう。
あるわけがない。
それに、時間がかかればかかるほど、道中のような悲劇がまた増えてしまう。
それだけは、御免だ。
《結構困ったな…》
何分も静寂が続く。
様々な可能性が脳みそをかすめながら、僕は一つだけ――重要な何かを留めた。
そもそもと言えば、これはロメロを探す旅。
ロメロにさえ、会えれば…
…そのような、馬鹿馬鹿しいことを一片の迷いもなく。
そのリスクを顧みることなく。
僕は……口走ってしまった。
「だったら……」
視線を落としていた僕は、まるで何かが閃いたかのように、言葉を紡ぐ。
「ロメロって、人は――」
僕はゆっくりと口を閉じた。
――しまった…
静まる部屋の中、僕は視線を泳がせる。
違う。
そうじゃない。
訊いちゃいけないんだった。
目を見開く店員を前に、暗い霧のような、不穏な空気が周りを満たしていく。
殺されたのかってくらい、後ろからの声が途端に消える。
しかし、視線だけは僕に向かっていることは分かる。
不味い…
僕のせいで、空気が…
バーテンダーの濁った藍色の目を見て、閉じていた口を小刻みに開いた。
いや、違う。
カウンターに座ってから分かっていた。
この店に入った瞬間から、ここにあった。
僕はやっと、“引っかかる何か”の正体を見つけた。
きっと、ロメロ以前に…
――ここは空気が重すぎる。
ロメロ以前に、ここはどうかしているんだ。
僕は固唾を飲み、目を細めた。
「…なんか……いけないこと、言いました?」
この期に及んで、その台詞を発する。
もう遅すぎるその台詞を。
店員は三回瞬きをして、ほんのり、唇を動かす。
「い、いいえ、ぼーっとしてただけです」
彼は、あまりにも偽物染みた笑顔で答える。
同時にまた、後ろの男たちも話し出した。
それもまた、動揺を隠すかのように。
「そのぉ……
ロメロって方は知らないです…」
彼はあからさまおかしい態度で、でもどこか微笑んでいるかのように、
空っぽのグラスを拭き始めた。
――嘘。
考えるより前に、本能的に分かった。
彼は僕に嘘をついたのだ。
あの警官たちがついたような、とびきりな嘘を。
「そうですか」
少し、冷たい口調で返す。
ロメロはここにいない。
そう分かっていて、なぜここにい続けるのか?
些か重くなった感覚で鞄を持ち上げ、ベレー帽を被り直す。
払うものだけ払って、僕は店を出ることにした。
「またのご来店を」の一言もなく、背後で錆びた鈴が鳴るだけだった。
※※※
「結局、手ぶらか…」
バーからある程度離れた所で、小さく弱音を吐いた。
――いや、吐くしかなかったのだ。
だって、どこから探せばいいのか分からない。
ロメロや店主の位置情報も何も知らない。
「……ヒントの欠片でも欲しいところだ…」
橙色に染まる空が建物の窓を照らし、水色と混ざった美しい色合いを作る。
その光が反射し、灰色の石畳を上から塗る。
そして――
それを踏み潰すかのように、僕はその上を歩いた。
途方に暮れながら、歩き続けた。




