3節 道中の悲劇
確か、ある大通りに繋がる狭い道を抜け、角を右に曲がろうとした時だった。
「何の音だろう…?」
微かに音が聞こえ始め、一瞬立ち止まった。
少し嫌な予感がしたものの、風に背中を押されるように、ゆっくり歩き出した。
――何か不味い…
直感がそう言ったが、またもや、それに勝るくらいの好奇心が僕を動かした。
良くも悪くも、僕の直感は間違っていなかった。
「は…?」
ごくりと、息を呑む。
《何…いや、なぜ?》
目の前にいる数人の警察と目が合い、僕は少し動揺する。
しかし警察より、その横にいる、アザまみれの子供と大人の男性の存在が僕を狼狽させた。
《いや、落ち着け…》
僕は拳から力を抜き、表情を整える。
息が詰まる中、無理矢理視線を地図に戻し、何も見なかったかのように、淡々と歩き出す。
酷い。
本当に酷い。
腹の奥がざわつくほどだ。
冷汗をかきながら、必死に白を切る。
けど、駄目だ。
ここで止まってはいけない。
地図を持ち上げて、視線を避ける。
ここは一旦、引いて…
「――どうした、兄さん?」
後ろからそう聞こえると、僕はピタッと止まった。
《ダメか…》
僕は険しい表情で地図を見詰める。
クソ。
拳に力が入ってしまったのだろうか。
歩き方が怪しかったのだろうか。
いや、今はどうでもいい。
それより、対処の方が先だ。
「…何でもないですよ」
まずは敵意を無にする。
そして、何でもないように笑う。
――そのような戦略が咄嗟に出た。
「先程から仕事を頑張っているなーって」
もちろん、嘘だ。
彼らを勤勉だと一ミリも思わない。
「そうか」
僕に問いを投げた警官はすっかり騙され、笑顔で立ち去ることを決めた。
その時、
「――なら、なぜそんな目で拳を握りしめる?」
《えっ?》
警官の中でも、一番立場が高そうな人が悠々と、笑みを浮かべて尋ねた。
クソ。いつの間に…
いや、でも、まだ…
「ああ、それはその…」
まだだ。
まだ僕が先手を取っている。
「――僕たちのために働いてくださっているのに、自分は何もできてないなーって…」
更に付け加える。
「こんな立派な街を守ってくださっているのに、何も貢献できない自分が許せなくて!」
僕は目を細める。
案の定、ここまで言えば警官たちの態度も幾分和らいだ。
「…何だ。そういうことか」
最初の警官がニコニコしながら言う。
周りの警官も、緊張感がほどけたかのように口角を上げた。
「守ってくれるって、そんな大層なものじゃないけどな」
顎髭の濃い一人が、少し照れくさそうに目を瞑った。
その顔に、些か嫌気が差した。
「そりゃまあね。“脱走者”なんて、暇つぶし程度に過ぎないから」
その横にいた坊主の警官が不敵に言うと、他の警官たちも笑い出した。
「脱走者…?」
彼らの言葉を聞いて、僕はキョトンとした。
そしてつい、オウム返しに訊いてしまった。
「ええ」
最高位の隣にいた、暗い金髪の一人が答えた。
彼は例の子供の隣にいて、建物の陰に顔を隠されていた。
「もしかして、気づいていなかったのか?」
先程まで笑っていた最高位が、少し怪訝な顔を向けた。
別に気づいていないわけではない。
そう簡単に無視できるものでもない。
ただ…
僕は地面に倒れている男の方を垣間見ると、初めてその傷の荒さに気づいた。
顔を見るに、恐らく武器は使われていないが、それでも、十分酷い怪我だ。
「脱走者如きが、逃げる代わりに抵抗して、息子を逃がそうとした。
だから、暴力に訴えるしかなかったんですよ」
苛立ちを覚えるような口調で、最高位の隣にいた人が加えた。
“脱走者”だったら、確かにこの状況に説明はつく。
逆に、それでしか説明がつかないのかもしれない。
しかし、
《まだ、おかしいことが一つ…》
「抵抗じゃない……」
暗い金髪の警官に抑えられている子が、嫌悪に包まれた眼差しを僕たちに向ける。
金髪の警官は、颯爽とその口を押さえた。
その子は、恐らくその親である男の人と比べて傷は弱い。
が、見えるほどではあった。
――黙れ。
とでも言うかのように、最高位も敵意に満ちた視線を送る。
「ん?どうしたんだ兄さん……?」
別の警官が僕に尋ねようとするが、それを無視した。
「――だったら、その子の傷は?」
「ああ。それも我々が“しょうがなく”やった」
《はぁ…》
僕はとても小さな声で呟くと、警官たちの顔を見渡した。
そして、言葉に詰まる。
「ああ、勘違いすんな。我々は彼らに危害を加えるつもりがあったわけではない」
最高位は僕に目配りをしつつ、淡々と話した。
《やっぱりおかしい》
僕の無理矢理上がっていた口角が少し下がり、それに伴い目も大きく開く。
彼らにとってはきっと、何の変哲のないことかもしれないが、
僕にとっては腹立たしい以外何でもない。
だって、張本人が殴った人の前で――
――自由を奪った人の前で、雑談をしているのだ。
「それに、これが終わったら彼らを元の地区に戻します」
別の警官が日光による暑さに、襟を押さえながら言った。
彼らに当たる日光は、僕に向かって大きな影を作る。
それが僕に覆いかぶさると、太陽が見えなくなってしまった。
そんな中。
警官の一人が僕の顔をじろじろ見て、少し腰を引いた。
「だ、大丈夫ですか……?」
その声を聞いた瞬間。
思わず前に踏み出してしまった。
怒り。
僕は一瞬、アイツに支配されてしまった。
「お、おい!?」
反応の早い警官が数人、銃を取り出す。
《――マズい》
向けられた銃口を横目に、一息に、汗まみれの手を地面へ突き伸ばす。
間に合え…
間に合えっ!
警官たちは呼吸を二、三回すると、少しずつ銃を下ろした。
「ぺ、ペンが落ちてますよ!」
ヤバい。
殴りかかってしまうところだった。
再び笑顔を作ると、警官たちは少し不気味そうに僕を眺めた。
ペンを拾うのには大袈裟すぎる動きだったことを、一目で分かったのだろう。
「あ、ありがとう…」
僕が拾ったペンを片手で受け止めると、その警官は目を逸らした。
「いやー、太陽が明るい!
あなたたちは忙しいだろうし、そろそろ僕も…」
微笑みながら言うと、しれっと拳を背中に当てた。
そうだ。
無理をしてはいけない。
ここで躓いてはいけないんだ。
僕は、急ぎ足でその場を去ろうと背を向ける。
「お前、ちょっと待て……」
最高位が椅子から立ち上がって、僕に詰め寄る。
どうしてだろう。
ノタムでもバレたのだろうか。
「その辺にしとけよ、ティアゴ!」
隣にいた警官が、綺麗なワイシャツの裾を少し強く引っ張ったが、ティアゴはそれを難なく振り払った。
「安心しろ。大したことじゃねえ」
彼は威厳に満ちた表情を僕の方に向け、ニヤリとした。
「何かあったら言ってくれ……」
笑顔を保ったまま、ティアゴを見返す。
「――警察はいつだって“正義”の味方だ」
彼が口を閉じると、風が少し強く吹いた。
相棒のベレー帽を揺らし、僕はそれを両手で押さえた。
※※※
ドンッ。
と、数十コド離れた場所で、僕はある建物の壁を強く殴る。
八つ当たりというやつだ。
「やっぱ痛えな…」
コンクリートのざらつきで、手が少し赤くなった。
《クソ…》
ほぼ真上から当たる日光に、汗がじわりと滲み出た。
駄目だ…
僕はいつまで経っても弱い。
…死ぬほどに。
鞄の中から革製の水筒を取り出し、水分補給を始めた。
少し温くなっていて、つい苦い顔をした。
あの子の目。
警官たちの笑い声。
目をいくら擦っても、その光景は鮮明なまま。
自分も傍観者であったと言う事実が、僕を離してくれない。
補給が終わると水筒を丁寧に鞄に仕舞った。
「けど、それで良い」
そうだ。
今は何もできなくたって、いつまでもそうである訳では無い…
「うん…きっとそうだ」
そう自分に答えると、ある言葉を思い出した。
『――弱い男には何も変えられない。』
それは確か、義父の言葉。
今でも僕を支えてくれる、大事な言葉だ。
彼を、そして自分自身を裏切ってはいけない。
いや、裏切ってたまるか…
「ぐぅ~~」
険しい顔をしていると、突然、お腹が鳴り始めた。
《人が考え事をしてるってのに…》
こんな時でも腹は減るのかと、少し自分に呆れた。
いや、でももうそろそろ午後なのか?
太陽の位置的に。
昨夜も今朝も何も食べてないし……
「一旦食べても悪くないかも…」
下を向きながら、自分のお腹に話しかけた。
そうだな。
飯を食って、すっきりすっきり。
そう何度も言い聞かせながら、手提げを抱え直す。
そして、少し気弱に歩き出した。




