1節 始まりの朝
記念すべき一話目
「寒い…」
息が切れるような寒さに、思わず体を震わせた。
意識がどこかに飛んでいたかのような、奇怪な感覚に襲われながら。
って、これはどういう状況だろう。
真っ暗な夜空の下、僕は小さな一軒家の前で棒立ちしている。
それも、見覚えのない扉の前で。
それも、恐らく間抜け面で。
「はぁ…」
《そろそろ夏だってのに、なぜこんなに寒いんだ…》
鼻のムズムズに眉を寄せながら、しかめ顔で満月を見上げる。
相変わらず、ちょうど良い明るさ。
「――コンコンッ」
ノック音が少し耳に響く。
《何しに来たんだっけ…》
ドアの向こうに誰がいるのか、そもそも僕がなぜここにいるのか…
何も分からないのに、なぜか、ノックを続ける。
コンコン。
トントン。
「……流石に寒いな」
肌に染みるような寒さが一段上がったような気がして、呼吸が少しずつ浅くなる。
まるで冬になったかのような。
夏が消えて行ったかのような。
「…って、流石に」
違和感が耐えきれなくなり、僕はつい、後ろを振り向く。
絶句。
言葉を失う。
その光景を前に、固唾を飲み込んだ。
「ちょっと…誰か!!」
乾いた声が、やけに遠くに響き渡る。
目前の扉を一層強く叩いた。
《何だあれは…!?》
闇――と言っていいのだろうか。
奥の見えない、周り全てを包み込む、暗くて深い闇。
通る先を漆黒に染めながら、僕に向かって来るのだった。
「ガタンッガタン!」
ドアノブを必死に引っ張っても、ドアごと押し開けようとしても、無駄。
ナンセンス。
無意味。
「…ここで…死にたく…」
そう呟きかけた時。
パッ。
と、家の扉は突然開く。
しかし気づけば、周りはもうすでに闇に包まれていた。
扉があったはずの場所では、ただ、ある小さな少女が立っている。
長めの黒髪に、汚れた白いドレス。
闇に顔を包まれながら、棒立ちで、こちらに向かって指差していた。
《誰…だ?》
そう思うと同時に、腕が何かに飲み込まれ始める感覚が全身を走った。
その状況に、僕は呆然とし、少女と目を合わせようとした。
しかし、彼女も闇に飲まれ始め、そのシルエットすら、次第に見えなくなった。
「や……め…」
手を伸ばそうとしたが、もう遅い。
目が閉じていき、指の感触さえなくなった。
意識が遠のく中、彼女の唇が僅かに動く。
「ここは…」
そして、ある声だけが、頭の中で何重にも、幾重にも響いた。
『――貴方の居場所じゃないでしょ?』
---
「やめろっ――!!」
大きな叫びとともに、思いっ切り起き上がる。
瞬き一つせず、荒くなった呼吸を抑えようと、胸に手を押し当てた。
《今のは…!》
そして、すぐに周りを見渡した。
「はあ…」
――誰もいない。
それに気づいた瞬間、どことなくほっとした。
掌や腕は無事。
しかし、頭が少し痛い。
《夢か…》
安堵に似た感情に包まれ、咄嗟にあくびが出る。
あれは何の夢だったのだろうか。
あの少女は、あの闇は、何だったのだろうか。
なぜ、僕は…
「――うっせーぞ!!」
怒鳴り声。
外から聞こえると、僕は我に返った。
「す、すいません…!」
ギリ聞こえるか聞こえないかくらいの声で謝罪をし、再び息を漏らした。
そして、腕と背筋を伸ばし始めた。
《やっと思い出した…》
太陽の光はぼんやりとしか入らず、風通しが非常に悪い。
布の壁を触り、僕は妙な感覚を覚えた。
「…汗?」
そう。
体が汗でびっしょり。
例の悪夢のせいなのか、暑さのせいなのか…
その疑問に答えもせず。
「まあ、とりあえず――」
――着替えるか…
※※※
「もう…三週間か…」
少し憂鬱な気持ちで天井を見つめながら、何気なく呟いた。
そして、脱いだばかりのシャツを畳みながら、少し考え事をする。
故郷、友、家族の元を離れてから、もうほぼ、三週間が経つ。
さよならすら言わず、まるで逃げるかのように旅に出てしまった自分は、どれくらいの成果を果たしたのかと言うと…
――ほぼ無だ。
実際、この街――アファロスについたのは昨日。
過程としては、確かに進歩がある。
それは間違いないことだ。
しかし、いまいちゴールに近づいている気がしない。
寧ろ、同じところでぐるぐる回っているような気持ちで、ここ一週間を過ごしてきた。
この悪夢も、前にも何回か…
「このままじゃダメだ…」
そう言いながら、無意識に掴んでいたベレー帽を被る。
少ない荷物を、泥で少し汚れた手提げ鞄に適当に詰め込み、立ち上がってから深呼吸をした。
《切り替えだ…》
そう言って、僕はテントの外に一歩踏み出した。
急に明るくなった視界に、思わず目を塞ぐ…
という事もなく、テントの中と同じくらい、外も暗かった。
…それは人にも言えること。
無数のテントの外では、雑談をしている人や、
仕事への支度をしている人。
子供の服を干している人までいた。
しかし、誰一人として、
「おはよう」の挨拶すらくれなかった。
もはや、僕を少し不機嫌そうに見詰めている。
《嫌な空気…》
そう思ったが、別に気には留めなかった。
――もっと酷い所はいくらでもある。
顔をしかめながら、オーナーのテントへ向かった。
「今日の分です」
小銭を丁重に置く。
その甲高い音が、少し、耳障りだった。
「ああ、確かに受け取った」
にっこりしながら、テントのオーナーはそれを片手で摘む。
そして、数えもせずにポケットに入れた。
「今日も空いてるから、困ったら声をかけな」
少し大きめの声で、でも同時に商人らしい目つきで彼は言う。
僕は彼と目を合わせてから、無言で立ち上がった。
そして、重なっている布を退かしながら、また外へ出る。
――ぼったくり。
分かっていたことだが、やはり気に障る。
「はぁ…」
微妙な嘆息をするとともに、“ロミル橋”の外へ繋がる大きな布の壁を通り抜けた。
うん。
やはり眩しい。
如何にも、初夏らしい日差しと言ったところ。
長い時間、まるで洞窟に閉じ籠っていたかのような気分になった。
「…今日って、何日か分かりますか?」
入り口付近で雑談していたおじさんたちに尋ねる。
酒のような物を飲みながら、その一人が気の抜けたように喋り出した。
「ああ?確か、今日は七月の…六日だったような…」
赤くなった頬を掻きながら、中年のおじさんが指で数えた。
予想通り、ちょうど三週間。
故郷では夏祭りの準備が始まろうとしている頃だろうか。
本来なら、僕も一緒に…
「――どうしたんだ兄ちゃん?そんな苦い顔をして」
一番奥に座っていた一人が微笑みながら、心無しに語りかけた。
《苦い?僕は今、苦い顔を…》
まぶたが少しずつ上がっていく。
「…いや、何でも。ありがとうございます」
《何考えてんだか…》
首を横に振って、おじさん達に礼をする。
そして背を向けると、少し早足で場を去った。
河川敷には、朝からたくさんの人が集まっていた。
釣りをしている人。
犬の散歩をしている人。
学校へ向かう子供たち。
みんな何かをするために、どこかに向かって歩いている。
――そんな中、僕は大きな川を呆然と眺めていた。
自分もどこかに向かっている。
明らかなゴールがある。
だったら、――なぜ顔を曇らせるのだろうか?
気づけば、川の一歩手前で膝をついていた。
太陽が真っ直ぐ当たる角度で正座しながら。
芝生のチクチクを気にしながらも、顔を少しずつ下げた。
そして、食い入るように、水面に映る自分の顔を凝視した。
「僕の…顔…」
普通に考えて、水に顔が写るのは何もおかしくない。
なのに、不思議に僕は唖然とした。
少し揺らぐ暗い茶髪。
じっくり見詰めてくる鋭い眼光。
いつも以上に弱い自分。
――それが、僕にとっては別人にさえ見えたのだ。
「違う…」
僕は小さく呟き、帽子を地面に置いた。
何しろ、旅に出ることを決めたのは、他でもない自分自身。
そう。
自分の意思でここにいるのだ…
両手を合わせて、水を掬う。
ポチャン。
と、水滴が垂れる音が、僅かに聞こえた。
少し冷たい。
それでも、両手を顔に近づける。
パシッ。
少し強めに顔を押すと、水が弾けた。
顔に生気が戻るような感覚で、それを何回か繰り返した。
これだ。
僕はこれを必要としていたんだ。
※※※
「さて…」
スッキリした気分で立ち上がり、爛々と輝く太陽を背景にベレー帽を目深に被った。
そして、例の場所に向かおうと…
「――どうしたんじゃい…?
ずいぶんさっぱりした顔をしてるのぅ…」
急な掛け声に少し驚き、振り向く。
そこには、釣りをしながら向こう岸をゆったりと眺めている、高齢のおじいさんが座っていた。
「お前さんの名はオンブロじゃろ?
なかなか遠くから来たもんじゃ…」
手に持っている釣り竿と同じくらい細い手で、彼は顎髭を掻いた。
はっと、僕は声を漏らす。
ノタム…
いつの間に!?
少し狼狽えてから、ふと彼の顔を見る。
いや。
でも、敵意はない。
何というか、“年寄り特有の親切さ”みたいなものを感じられた。
《何だ、この爺さん…》
取り敢えず、“観察力の良い年寄り”ってことにしよう。
「それで、お前さんはどうしてアファロスに…?」
おじいさんは感慨深そうに、無意識に右手首を握っている僕を眺める。
――なぜここに?
それほど簡単な質問は、そうないだろう。
何せ、いくら不安が相次いでも、これだけは絶対に忘れるまい。
「僕は…」
帽子の先を指で掴む。
「――家族のために、この国を変えてみせます」
案外スムーズに言い終わると、おじいさんはほんのりと笑った。
そして、体ごと川の方を向いた。
「そうかい、そうかい…」
糸を遠くへ投げると、彼は視線だけをこちらへ向けた。
「それは立派な目標じゃな」
彼の言葉に奇妙な安堵を感じ、僕は微笑を誘われた。
彼は再び背を向ける。
「ところで、お前さんの名前は…?」
その小さな背中に、僕は答える。
「アレハンドロ。アレハンドロ・オンブロです」
彼は身じろぎせず、ただ竿を持ってない方の手を上げた。
「そうかい。無事を祈る…」
その後の行動を“帰って良い”の合図と捉え、少し軽くなった鞄を肩に掛けた。
「――この世界は厳しいぞ」
おじさんか、或いは別の誰かが言った言葉。
もしくは、単に、僕の聞き間違いだったのかもしれない。
そんな一言が、背後から聞こえたのだ。
《分かってる…》
深く考えるよりも、僕は足を動かした。




