26節 チャンスを与える
先日ひげを剃ったばかりの顎を撫でながら、ロメロは大きくあくびをした。
「僕の前であくびをするとは、舐められたもんですね」
「あー、いや。そういう意味じゃないんだ…」
目の隈を見せつけるように、若者――サミュエルは強引に視線を合わせる。
ロメロはそっと目を逸らした。
「…まったく、長旅だったことは分かっているんですけど。分かっているんですが、もう少し配慮は出来るんじゃないんですか?こちらの事情だって踏まえているはずですし」
「そうだな…すまなかった。だけど、サミュエル。君も配慮というか、思いやりが足りないんじゃないか?ほら、私たちは一年ぶりの再会だろう。一つぐらい、『元気にしてた?』とか言ってくれても良いと思うね」
二人は歩みを止めて、数十台の自転車が前を通り過ぎるのを待つ。
「多忙なんですよ」
ロメロを横目に、サミュエルはそれぞれ違う柄のヘルメットをなんとはなしに眺めた。
目前から完全に過ぎ去ると、おもむろに歩き出した。
「例の事件もそうですし、大学の方も一筋縄では行きませんから。しかし貴方と会えて、本当に微塵なほど僅かでしたが、安心したことは、否めないですね……なんですか?なぜ口角を上げるんですか?」
「…プネモナスで会った時と、どこか変わったと思ってね」
ロメロはため息を吐き捨て、胴体をふらりと後ろへ向ける。
「にしても、中々大きい図書館だったな…」
物憂げな笑みで、おおよそ百数十メートル後ろに佇む本館を高く見上げた。
そう。
ここまで離れても見上げることができるほど、とびきりの高さだった。
「まあ、この国の五大建造物の一つですからね。これを見るために、国王も毎年訪問するレベルですから」
基本知識であるかのように、サミュエル何気なく呟いた。
しかしここで言う“基礎”は、あくまでも彼にとってのものである。
「言われてみれば、そうだった気がするね。今年はいつ頃になるんだ?」
ロメロの質問に、サミュエルは珍しく首を横に振ってみせた。
「さあ。国王の予定なんて、それこそ“微塵なほど僅か”しか知りませんので」
大通りの横にぽつりと設置されたバス停の椅子に、二人は腰を落とした。
※※※
「この先かい?」
「はい」
二人の背丈より遥かに大きいフェンスの前で、ロメロは訊いた。
「悪い意味ではないが、風変わりな所だ…」
サミュエルは反論せず、彼を中へ――カルディア最大の集合住宅地帯へと導いた。
入った瞬間から、辺りは異色を唱えていた。
そこは迷宮のように広大で、加えて、建物同士に大差がない。
樹木や雑草も生える余地のないほど、地面がコンクリート面。
曇り始めた空も相まって、その区間内で白黒の世界が完成していた。
相応しい例えかどうかは別として、ロメロはそこを刑務所と似ているように思った。
「…ここに住む利点って、どんなのがあるんだ?」
「家賃が安いだけじゃないですか?中心街からは先程見た通り離れていますし、とにかくアクセスは悪いです。気分も悪い」
散々な良いようだった。
「けど、まあ…警備は薄いし、人の目も集まりません」
「へー」
茶髪の返答を侮るように、ロメロは相槌を打つ。
訊いておいて何だと、小声でぼやいているサミュエルに。
「サミュエル、君って幸せか?」
透き通る声で言いながら、目にかかっていた白髪を払った。
「さあ。今までと変わらずですが、僕は答えのない質問が嫌いですので」
サミュエルそう答えると、ロメロは大きな案内板を通り過ぎていることに気づいた。
《まさか…》
ロメロは苦笑して、彼の後ろをついて行った。
C帯の一二三号室。
それがサミュエルのアパートの部屋番号だった。
「靴のままで大丈夫です」
そう言いながらも、靴を脱いでサミュエルは上がる。
「だったら、お構いなく」
微笑みながら、ロメロも靴を脱いだ。
小さな玄関からリビングへ向かうと、奥から何かが壁にぶつかる音がし始めた。
サミュエルから数歩遅れて、ロメロは一瞬だけ合間にあったキッチンに目を通した。
大学の友達との集合写真、
食べかけの冷凍食品、
そして棚の上に置かれている封筒。
確認が終わると、彼は一歩前に出た。
《さて、どんなやつか…》
そう言い、いよいよリビングの中へと体を運んだ。
そこには、一人の若者が床で縛られていた。
口や四肢に縄が巻かれ、身じろぎ一つ取れない状態…のはずだったが、それでも男はみみずのように暴れていた。
「彼です」
サミュエルが彼を指差すと、若者は一層激しく暴れた。
ロメロは観察するかのように、彼を静かに見下ろした。
「――先月の虐殺事件の“犯人”。ここに連れてくるのに、色々困りましたよ」
どことなく退屈そうに、彼は表情を一切変えることなく言った。
疲れ切っているサミュエルの目に、その若者は強い敵意を向けた。
それでもサミュエルはこともなげに近づいて、なんともなしに口の縄を解いた。
「クソ…!」
それが若者が初めて発した言葉で、サミュエルに向けられたものだった。
しかし本人は気に留めず、ただ、近くにあったソファに体重を乗せた。
「やあ、グスタボ君」
ロメロは冴えない顔の彼に微笑ましい声で挨拶する。
サミュエルに何かを言おうとしていた彼は、ロメロの方に水を向けた。
「はじめまして」
ロメロは右手を彼に差し出した。
「何だお前……?誰か知らねえが、手を退けろ」
ロメロの友好的な態度を、彼は全面拒否。
「誰か知らねえ、か…」
ロメロはサミュエルに「言っただろ?」とでも言うように、肩を竦めて見せた。
サミュエルもそれに応じるように、小さく嘆息した。
「おい、サミュエル…なぜ俺とお前がここにいる!?」
グスタボはそんな態度の彼に、かすれた声で怒鳴りつける。
「あいつらは、姉貴は!?」
彼は次から次へと、思い浮かぶ疑問をこの場で明かそうとした。
明かそうとしたが――
「――すまないけど、君の相手は彼ではなく、私だ。最も、君が今気になっている事はあとでゆっくり話そうじゃないか」
ロメロは彼とサミュエルの間に立つ。
グスタボの剣幕を無視して、落ち着いた口調で語りかけた。
「どけッ!俺はてめぇに用がねえんだよ!」
彼は勢いのまま、縄から腕を引き抜こうとする。
「なあ、答えろ!黙ってねえで教えろよ、サミュエル!!」
一生懸命立ち上がろうとする彼を、ロメロは動かず見詰める。
グスタボは数分の試行の結果、それができないと分かって舌打ちした。
そのみっともない自分の姿に、彼は間を空けてから再度舌打ちした。
「グスタボ君、よく聞いてくれ」
俯くようにして、グスタボは黙る。
「実は今、君は今指名手配犯になっているんだ」
ロメロの穏やかな眼差しが、彼を槍のように突く。
「…は?」
グスタボはその言葉を聞いて、自分からロメロと目を合わせた。
「おい、てめぇ。冗談ってもんがあるだろうよ…」
先程の激しい語調が、段々と崩れていく
「なあ、縛られてるからって良い気になってんじゃねぇぞ、クソが…」
「確かに、少しばかり良い気になっていることは否定しないが、グスタボ君。なぜ君がここにいるかくらいは、推測がつくと思うけど」
伝説の発言に再び、グスタボはサミュエルの方に視線を求めた。
しかし、やはり彼は黙ったままだった。
「じゃあ…」
若者の視線は、絶望的なものへと変化する。
「姉貴は…姉貴は殺れなかったのか……?」
グスタボは突如、強張った腕から全ての力を抜いた。
「そうか……俺は…俺は失敗したのか……」
「いや、そんなこと――!」
サミュエルは初めて会話に割り込み、席から立ち上がろうとする。
何かを恐れるように、疲れた目を大いに開いて。
「――そうだ。君はまた失敗した」
ロメロは少しも容赦なく、柄にもないような言葉を浴びせた。
それを肌で感じると、グスタボは突然震え始めた。
体を思いっきり地面にぶつけ、脱力していた血管が浮き上がるほどの力を込めた。
その振動は下の階にまで届いたのかも知れない。
「…失敗かよ……失敗なのかよ…」
グスタボはその後黙り込み、浮かない表情のまま地面を直視した。
サミュエルもグスタボの方を向いたが、そんな彼に言う言葉が見つからなかった。
いや、かけるべき言葉ならとっくに見つかっていた。
大学入試のテストの模範解答以上に明白だったが、どうしても、彼にだけそれを言う資格はなかった。
ロメロはどこもかしこも、本当に全く変わらない態度で居座っている二人を眺めた。
心配ごとがないかのように。
怖いことや不安が存在しないとでも言う風に。
そして、ベランダと部屋を隔てる窓のカーテンを触った。
指の肌に擦りつけ、やがて熱くなるのを感じた。
ハーフフィンガーのグローブは、甚だしく頑丈そうな革製だった。
そのまま左腕もカーテンに突き出すと、彼は両手を大きく外側に広げた。
「けどね…」
彼は全身に光を浴び、身をずらして、それがグスタボにも当たるようにした。
「君は敗北していない」
白黒だった景色は、一瞬だけ青色を映し出した。
「確かに、君は姉貴を倒せなかった。犠牲が出るだけでなく、冗談にもならない野蛮な連中に後を追われ、挙句の果てに君が犯罪者として名を汚す結果となった」
グスタボは目を大きく開けて、ロメロの後ろの、圧迫されるほどの存在感を放つ太陽に目を瞑らないようにした。
「――しかし!」
ロメロは力を込めて言った。
「君も、君の妹も無事だ」
彼はグスタボとサミュエルに向かって、自信に満ちた笑顔を見せた。
「だから…。――だから、私は君にチャンスを与えに来た」
白髪が太陽を爛々と反射した。
「チャンス?」
ロメロの言葉に、グスタボは体を僅かに起こした。
「復讐しよう」
ロメロは微笑み、しゃがんで、グスタボに手を差し伸べる。
「来い、ついてこい。私が君の目的の手助けをする。その代わり、君にも手を貸してほしい」
グスタボは彼と目を合わせ、固唾を静かに呑んだ。
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ロメロが信用ならないだけではなく、
彼自身も諦めを考慮し、覚悟していたせいで、その手を取るか迷った。
《また、失敗すんのか…?》
彼は自分の人生を変えることができないと確信しきっていた。自分が負けたと確信しきっていたのだ。
そして、
――負けた者に諦め以外の選択肢はないと信じていた。
落ちこぼれに何ができるのか?
あれほどのチャンスを逃した自分に何ができるのか?
もちろん、その答えが分からない。
分からないけど――、
『お兄ちゃんは凄いじゃない』
――彼を分からない方へ前進させる大きな物が、その心の中にまだあったのだ。
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彼の視線は、再び鋭いものに戻った。
「…てめぇを信用していい理由は?」
挑発的で、好戦的な口調。
「ふん」
ロメロはそれが気に入ったかのように、鼻で笑った。
「ついて来て、自分で確かめるが良い。 嫌なら出て行って、逮捕されるのも自由だ」
その言葉にグスタボは、「クソ野郎」とでも言いたげに口周りを歪めた。
※※※
「これが、貴方の欲しがってた書類です…」
二人を家から追い出して間もなく、アパートの駐車場でロメロに大きな封筒を渡した。
後ろではフードのついたマントを身に纏い、グスタボは二人の会話が終わるのを待っていた。
そんな彼を少しだけ見てから、サミュエルは忠告をした。
「ロメロさん……できもしない約束はしないでくださいね」
ロメロは封筒を仕舞いながら、彼の不審な表情を窺った。
「多くの命が貴方の手にかかってますから」
そう言って、サミュエルはアパートの入り口へと向かった。
ロメロも最初のうちは、無言で彼を見届けようと思った。
「私が君の期待を裏切ったことがあるか?」
しかし急に気が変わったのか、少し距離が空いてからロメロは尋ねた。
「一度だけ…」
サミュエルも微笑み、ズボンのポケットから眼鏡を取り出した。
「十二年前に」
その言葉を聞くと、ロメロはいつもより大袈裟に笑った。
サミュエルは振り向いて、別れを告げようと思ったが、あまりにも無様な光景が目に浮かんだので、考えを変えた。
「グスタボと、僕の唯一の家族……」
彼は息を吐いてから、手を上げて反対方向に歩き出した。
「――弟を頼みます」
それがサミュエルの残した言葉だった。
メモ:
《国家総統直属図書館「エル・ニャンサ」》
・高さ:本棟80コド、別棟140コド
・広さ:アファロス市庁の約25倍
・収蔵数:2.3億点(書籍、記録書、地図、写真など)
・歴史:23代目国王によって建設。以降、大規模工事は行われず(リニューアルのみ)。
新肢秩暦234年に「五大建造物」の一つに指定。
・外観:茶色の壁と白い柱の組み合わせが美しい。周囲の整備も行き届いている。
内部は天井画、彫刻のような床や壁が特徴。
・形状:巨大な長方形を基調に、両端に二つずつ大きな円柱。
壁や天井には無数の装飾的な突起。
・印象:壮大で美しい。書物も面白い。
さすが五大建造物の一つだ。
この国の歴史と文化が詰まっているだけでなく、
貯蔵されている書物も“無限に楽しめる”と言っていい。
サミュエルによると、学生はほぼ毎日通うらしい。
それでも、彼でさえ図書館の全てを見たわけではないという。
まあ、あの広さなら当然か。
王の訪問が続いたせいで、国家による規制や書物の撤廃が進んでいるらしい。
それでも、まだ処分しきれないほどの資料が残っている。
来月会う予定のニコラスは本好きだったはずだから、いつか彼を連れてきたい。
また余談になるが、ここで見つけた『窓のない人生』という本を買おうか迷っている。
サミュエル曰く、去年のベストセラーらしい。
……まだ書き足りないことは多いが、とにかく、また来たい場所だ。




