22節 昨日の子
「おい、アレハンドロ!」
ガブリエルの声が、背後から聞こえた。
ようやく僕の不在に気づいたようだった。
「大丈夫か」
群れている人々の間を通ってこちらに駆け寄って来る。
「…」
しかし当の僕は、それどころではない。
恐怖。
頭痛。
嗚咽感。
その三つが複雑に入り混じって、腹の中で薄黒い気持ち悪さを作り出していた。
それは単に火刑を目の当たりにしたからではない。
男の皮膚がありえないほどに腫れていて、非現実――もはや超現実的と言えるくらいに、
黒焦げになっているからでもない。
別の感情。
全く異なる苦難が僕を襲っていた…
「――アレハンドロ」
誰かが右肩を強く握った。
ガブリエル。
気づかぬ間に、僕の傍についていたらしい。
「随分と見苦しい光景だな…」
彼は独白のように、静かに喋りだした。
「それにしても、おかしい。なぜこんな時期に、こんな人の目にかかる場所で、こんなことを…もしかして…いや、…」
「……」
彼の言っていることを、無礼ながらも途中で聞かなくなった。
僕には無関係、故に無関心。
そう思ったからなのかもしれない。
心そこにあらず。
というのは、間違いないことだろう。
「…まあ、良い。今はそれどころじゃないな…帰ろうぜ、アレハンドロ」
独り言が終わったようで、ガブリエルは少し慌てて立ち去ろうとした。
《帰る…》
悪くない考えだ。
ここにいたって、何ができるというのか。
何を成せるというのか。
僕は、一瞬だけ目を閉じた。
そもそも仲間の死や、考えなきゃいけない問題だって他にあるはずだ。
そっちを優先した方が効率的で…
「――おい、アレハンドロ!お前どこに…」
ガブリエルは驚いたように振り返って、先程より僕を強く呼びかけた。
「ガブリエルさん…ごめんなさい」
しかし、僕は彼を聞かなかった。
見向きもしなかった。
「これからすることは、許してください…」
「え、なんて?…って、おい!待てって!」
彼は急いで僕を止めようとするも、押し合う人のせいで間に合わなかった。
一方で、僕は駆け抜けながらそこを離れ、脱走者の男が見えやすい位置へ近づこうとした。
「ごめんなさい。ごめんなさい…」
誰に謝っているのか。
自分でも答えがわからない。
ただ、男が見える位置に。
炎が見える位置に。
そして、後ろにいる人が見える位置に――
「――いた」
僕…ではなかった誰かが、どこか嬉しそうに、心底安心したように呟いた。
ちゃんといた。
そこにいた。
生きていた。
《帰りたい…》
それは僕の、忠実な願いだった。
一秒早く帰って、皆と雑談や笑談でもして、悪夢とか何も見ずにゆっくり寝たい。
しかし。
男の後ろにあったものを見てしまったのだ。
この僕が。
そして、その中に潜んでいる“アイツ”も。
《逃げたい…》
僕は自分自身をどうにか止めたかった。
足でもへし折って、目を突いてでも。
「絶対に…」
けど、アイツを止めたくなかった。
いや、止めたら、自分が一生後悔すると分かりきっていたから。
僕にはそんな覚悟がなかったから…
と、突然。
「か、火事だ!!家が一つ、燃えてるぞ!!」
群衆の誰かが、大声で叫ぶ。
そして、それが鶴の一声であったかの如く、民衆は一斉に走り出した。
「キャァーー!!?」
「くそ、誰か水を!?」
「他の家に広がる前に、逃げろ!!」
パニック。
混乱。
アイツには一切合切、関係のない言葉だった。
「絶対に…」
炎が広がったせいか、周りが数倍見えやすくなったように思えた。
視界の届く範囲が、急激に増した。
しかし、誰だったのだろうか。
炎を起こした人は。
この状況を作り出したやつは。
《考えても仕方ない…》
「それ、落ち着け!!何を慌てている!」
警官たちが数人、大衆を鎮めようと声を上げる。
その声は大混乱によってすぐさま掻き消された。
その隙を使って、僕はそこら辺にあった木製の椅子を一脚手に持った。
少し大きめで、見るからに硬そうな椅子。
「援護頼む!!市民を落ち着かせろ、急げ!!」
警察が次々と連れたって、席を離れていく。
おかげで、今度こそ僕の目に瞭然と映った。
「絶対に…」
二、三人の警官たちに囲まれて座っていた一人の男の子。
年齢は分からないが、学校に属していれば恐らくまだ低学年だろう。
ここにいる以上、とても学校に行っているとは思えないが…
「――どうなさいました?」
その少年へと向かう僕に気づき、警官が一人声をかけた。
何か警戒し、ポケットからいつでも拳銃を取り出せるように構えて。
「絶対に…」
返答せず、僕は足を止めない。
「後一歩でも近づいたら、発砲しますよ」
発砲か。
恐ろしい。
拳銃なんて向けられたら、たまったもんじゃない。
《くそ…》
しかし恐怖に打ち負けることはないみたいだ。
だってもう、僕の、アイツのやりたいことが一致している。
あの少年を。
昨日助けられなかった、見殺しにするしかなかった少年を。
――脱走者の少年を、助ける。
「では、忠告通り」
途端、僕は走り出した。
全力疾走して、警官へと向かった。
「大丈夫か!?」
彼の背後にいた別の警官もそれに気づき、少年を置いて、銃を取り出した。
「はぁ…」
ため息ではなく、息継ぎ。
二人の標的になっている僕には、残されている行動は少なかった。
そして、発砲。
一弾、二弾と連続で僕に襲いかかる。
「畜生!」
だが、どうにかそれらを椅子で防ぐことができた。
要するに、命中はしなかった。
そのまま、瞬く間すら置かず、三弾目、四弾目と降ってくる。
「痛っ…」
今回は上手く防ぎきれず、肩と腕に一弾ずつ当たった。
加え、昨日三人から逃げていた時にひねった足を踏み間違えた。
警官たちはそれを逃さず、膝ついた僕を捕らえようと走ってきた。
「絶対に…」
アイツがまた、同じ台詞を繰り返した。
絶対に。
絶対に。
絶対に、何だって言うのか?
はぁ…
《…もういい、止まるな!》
「そのまま動かずにっ」
膝ついたまま、僕は椅子を勢いよく投げつけた。
「――ケホッ!?」
椅子をまともに受けた警官は、そのまま地面へ倒れた。
「はっ」
もう一人はそれに一瞬戸惑い、足を止めた。
いわゆる失敗。
明確な敗因。
それが彼の最大のミスだったことに、間違いないだろう。
「かっ」
拍子抜けした声。
同じく、拍子ずれした僕の行動。
僕は思わず、彼へ体当りした。
「やめっ――!」
瞬時に、近くに落ちていた木の棒(松明の物だったのだろうか?)を手に取った。
そしてそれで、警官を殴りつけた。
《くそ…くそ…》
あまり心地が良いと言えない“人を殴る”という感覚を、久しぶりに思い出す。
ああ。
嫌だ。
「やめっ…」
何発目か分からなくなった所で、警官は声を発さなくなった。
意識を失くしたのだろうか。
《戦意喪失…》
多分、気絶しただけだ。
同時に。
椅子を投げつけられた警官が、痛ましそうに立ち上がった。
「はぁ…あぁぁ…」
呼吸が荒れて、内心が高ぶっていたようだ。
しかし何故か。
僕と目が合うと、彼は一言も残さず走り出して行った。
まるで、怪物でも見たかのように。
《まあ、良い…》
乗っていた警官の上から退き、辺りを確認してから僕も立ち上がった。
「君…」
一人残された少年を、僕は眺めた。
「……」
予想通り、何も言わない。
戦意というより、生力すらなくしているようだった。
…要するに、彼の瞳には恐怖も喜びも、そういう感情は何一つ見出せなかった。
同じく僕も。
そして、アイツも。
昨日の子を見て、何も言ってやれなかった。
ごめん。
すまない。
僕のせいだ。
君は悪くない。
そんな一言も言ってやれなかったのだ。
何せ。
――彼の父親はもう、すでに死んでいたのだ。
※※※
人々の間を通り抜け、少年と共に場を後にしようとした。
唯一の邪魔者である警官たちは群衆に押され、誰一人として僕の存在に気づいていないらしい。
炎が上がり続ける家や、それを見て右往左往走り回る人々を落ち着かせようとしているようだ…
「お前、その子は!」
と、勝手に安心しきっている僕の所に、一人の警官が現れた。
不味い。
彼は紛れもなく仲間を呼ぶ…
その時。
「えいっ!」
ガブリエルはその背後から現れ、作物用だと思われる鍬で彼を撃退した。
「ちっ…ほら、行くぞ」
機嫌を害したそうに、彼は目を細めて言った。
僕は少年と黙って、その後を追った。
「お前、正気かよ…」
炎から遠ざかる一心で家々を通り抜けている間、ガブリエルは小さくぼやいた。
今見れば、一部の家の門横には樽などが積まれていた。
…あれが燃えたのだろうか。
「…」
またもや独り言のようだったので、即席では何も返さなかった。
しかし、その言葉にようやく実感を覚えた…
「…まずは、ジュリオのところに戻ろう」
後ろを顧みず、彼は僕に指示した。
「あの倉庫なら安全だ。
…そこから、この子をどうするか考えよう」
三人は目立つまいと意識して、なるべく話さずに集落を離れた。
幸運なことに、数分歩いた先にはまた、ブレング川のほとりに戻ることができた。
「はぁ…」
急に止まると、ガブリエルが一つ嘆息。
僕はただ、彼から目を追いやった。
「なぜ、助けたんだ?」
それすら気づかれたらしく、嫌でも彼と目を合わせざるを得なかった。
《…》
強めに唇を噛んだ。
「答えろよ、アレハンドロ」
圧迫感、緊迫感を感じさせる口調。
それでも、僕は答えなかった。
答えが分からなかった、からだ。
「…前に会ったことがあるんだろ?あの子と…」
図星な発言に、僕はにわかに目を背く。
彼も気まずさを覚えたようで、少年の方に視線をずらした。
「はい。昨日の朝、見かけました」
そう。
“見かけた”。
見殺しにしたとは、到底言えなかった。
「じゃあ、なぜ助けたんだ?それが含むリスクくらい、十分解っていたはずだろ?」
真剣な、辛辣な眼差し。
別の意味で、ナタリアのよりも刺さったように感じた。
「分かりません…」
――突如、痛みが走る。
ガブリエルは反射的に、僕を殴った。
その拳で、右頬に容赦なく。
「もしお前のせいで…お前のせい、で…!!」
そこまで言いかけて、彼は口を閉ざした。
少年が見ていたから、だったのかもしれない。
「ごめん…」
小声で僕は呟く。
同時に、殴られた痛みがじわじわ戻ってきた。
「いや、謝るのは俺の方だ…」
ガブリエルも同様、小さく言い放つ。
そして深く呼吸をして、夜空を高く見上げた。
「……君がやったことは、英雄的な行為だったさ。俺には決してできなかった。
何も、悪いことじゃない」
ふと、月の光を反射する川が目に入った。
それは月だけではなく、夜空に浮かぶ無数の星々をも所狭しと写していた。
《…果たして、》
それを見ていたのは、本当に僕だったのだろうか…
それとも、“昨日の子”だったのだろうか?
余談ですが、この編が終わり次第序盤を改稿するかもしれません。逆に言えば、初編が終わるまで大きい編集はしないと思います。80点で進む勇気!!




