第92話 精霊の祝福をあなたに 5 ―― 琥珀
レンドルとジュカは監視塔に向かっていた。サナロアの治療のためだ。
剣牙族のガルルガの襲撃でサナロアが重傷を負った。その治療の直前にジュカは奴隷商人のエドマンに連れ去られた。
その場面に出くわしたレンドルはジュカを助けた。ほんの数分前のことだった。
「ジュカ。来るのが遅くなってすまない」
「ううん。ありがとう。助かった。それと、レンドルさん。覚えていますか」
「渡したいと言っていたこと?」
レンドルが応えると、ジュカは柔らかに微笑んだ。
「いま準備ができたから、渡したいの」
ちょうど夜風が、ジュカの薄紅色の髪を揺らした。
救護室にいたときも、ガルルガの戦闘をしていたときも、フードをしていた。
だけど今は、髪も獣人族の耳も見えてた。
小さな雨粒が時折、身体にぶつかっていく。彼女の髪も雨粒に濡れ、僅かに光っていた。
「いま、から?」
準備ができたといっても、監視塔に向かっている最中だった。
「すぐに終わるわ。サナロアさんも待たせない」
ジュカの目は真剣で、真っ直ぐだ。
「ああ、わかった。いいよ」
「……今から渡すものは、精霊の恩恵を得られる証。炎尾族の精霊紋を介して、生涯に一度だけ授けられるものなの」
神々と精霊は違う。だから恩恵とは加護とは違うものなのだろう。力ではなく資格を得られるという。
「その恩恵は精霊を感じ取れたり、色々な気づきを与えてくれる。最初は、とても小さな繋がり。でも、もし精霊に気に入られれば、命が助かったり、力を貸してくれることもある。だから《精霊の気まぐれ》ともいわれているわ」
精霊のいたずらといい、気まぐれといい、精霊とは輪郭の定まらない不思議な存在だ。
見たこともなければ、感じたこともない。
でも、ジュカの力を見て、確実に存在していることはわかった。
精霊とはどんな存在なのだろう。
もし、感じ取ることができたなら、あの屍人たちを目覚めさせた時にもわかったのだろうか。
「ジュカのすごい治癒力を失ったりはしないの?」
「大丈夫。あたしの力は失われない。あたしが借りているのは精霊の力そのものだから。レンドルさんに渡すのは、力ではなくて炎尾族が勇者として認めた証なの」
そう言ってジュカは両手を前に差し出す。ぼんやりとした魔力が集まっているのを感じた。
「本当はこの力を、いずれは部族の勇者――あたしの夫となる者に贈るはずだった。でも、勇者になるはずだった者たちは、剣牙族と巨人族の傭兵に殺された。だから、もうどこにも……いない」
彼女の言葉に、レンドルは言葉を失った。
「……そう、だったのか。あの魔獣ガルルガも、そこにいたのか」
「ええ、そう。お父さまも兄さまも、最後まで勇敢に戦ったけれど、あの魔獣に殺された。……あの日にすべてを奪われた。お母さまは、どうなったかもわからない」
彼女は、デーン王国の貴族のところに、何年もいたと言っていた。
だが、その前からも人族の言葉を知る環境に身を置いてきていた。
人族の言葉を流暢に話す彼女が、どれほど苦しみの中にいたのか、レンドルには想像もつかない。
「そんな大切なものを、俺に、いいのか」
「あの日からずっと、それを夢だと思いたかった。でも、眠れない夜ばかりが続いた。ううん、どうして生きてるのかも、わからなかった」
レンドルも銀狼に母を殺された日から、ずっと悪夢を見続けていた。
だから、彼女の言葉の意味を、少しだけ理解することができた。
「巨人族の傭兵もガルルガも、レンドルさんが倒してくれた。あたしの、みんなの仇を討ってくれた。だから、あたしの見てきた夢は、今日で終わるの。レンドルさん……ありがとう。きょう、今のために、あたしは生きてきた」
感謝を述べる彼女の声が、震えている。
「あたしは炎尾族最後の精霊紋を持つ者。精霊語りのジュカ。ずっと、誇りだけを胸に生きてきた。これで役目を全うできる。これほど嬉しいことはないわ。でも、それをレンドルさんに渡そうというのは、あたしの身勝手なお願い。だから、祝福させてほしい」
生きる意味を見つけたと言わんばかりの彼女の言葉に、レンドルは何かを言うことができなかった。
「……それが俺でいいのかは、わからない。だけど、ジュカが俺に渡してくれるというなら、俺はそれを受け取るよ。きみの部族が誇り高く生きてきた証なんだ。それを受け取らない理由なんて、どこにもないさ。むしろ、精霊を感じられるなんて、すごいことだよ」
「ああ、やっぱり、あなたを選んで良かった……」
涙を拭う右手には、奴隷商人に付けられた痣が残っている。
「その痣、治癒はしないのかい」
「儀式に必要なので、残していたの」
そう言うと、ジュカは小さな刃物を取り出し、レンドルに差し出す。
「これで、あたしの腕を切ってほしいの」
「えッ!?」
綺麗に装飾された指ほどの小剣だ。水色の透き通った宝石のようなものを加工して作られていた。
美しい輝きを放っている。とても丁寧に作られているのがわかった。
「本来の儀式は勇者となる者に、あたしは傷をつけられるの」
「なんでそんなことを」
「ささいなことで、夫となる者に傷をつけられてしまい、悲しくなって花嫁が森に逃げこむの。そこで魔獣に襲われて、大怪我をする。夫が助けに来て魔獣を倒す。そしてずっと寄り添って生きていく。そういう儀式を経て、精霊紋の力を借りて授けるの。勇者の証として」
「そう、なのか。なんだか劇みたいだな」
「ふふ。そうね。花嫁を傷つけたら魔獣に殺されてしまうかもしれない。だから、そんなことをしないで仲良く暮らそう。そういうことなの。魔獣を倒すだけじゃない。正しく守れることも、勇者として認められる理由なんだと教えられてきた」
ただ魔獣を倒すだけが勇者じゃない。大切なものを守っていくことが勇者なのだ。
ジュカが、レンドルを勇者として認めてくれたことが、なんだかとても嬉しく思えた。
「本当は魔獣に傷つけられるのだけど、あの奴隷商人のせいで、あたしの腕は怪我、いいえ。大怪我をした、でしょ?」
「そうだな。大怪我だ。ジュカの腕を無理にひっぱるなんて、ひどい魔獣だった」
レンドルが軽口を叩くと、ジュカの口元がほころぶ。
痣になるほどだったから、奴隷商人は魔獣の代わりを務めることができた。
「順番は変わってしまったけれど、傷をつけてほしいの。痣の上に。深く跡が残るくらい刺して」
「深く!? だけど……。いや、やるよ。先に謝っておくよ。ごめん」
ジュカが優しく微笑んでいる。躊躇したら駄目だと思った。
レンドルは、ジュカの右腕にナイフを当てた。
力加減がわからなかった。思ったより鋭利で、少し深く刃を刺してしまった。
肉を裂く感触が伝わり、じんわりと血が滲み出てくる。
大丈夫なのかと、もっと、優しくやれなかったのかと後悔をした。
「うあ! 痛かっただろ。大丈夫かい」
「大丈夫。ちゃんと傷が残る。――うれしい」
ジュカは、じっとレンドルを見つめている。
儀式をしているから嬉しいってことなのか。獣人族の儀式ってこういうものなのか。
ジュカは布のようなもので、すぐに刺したところに巻いていく。血が滲んでいく。
儀式のあとに治癒するのだろうか。
いやちょっとまて。傷が残るといっていた。治さないつもりだ。
「目を閉じて、両手をあたしの方に差し出して。あたしが両手でレンドルの顔を触ったら、目を開けて」
傷のことを聞けないまま、言われるがままにレンドルは目を閉じ、「わかった」と答えた。
「それから……あたしを抱きしめてください」
「な、な、なんだって――」
思わず目を開けたレンドルに、ジュカは微笑みかける。
「儀式、なので。もう一度目を閉じて」
レンドルは戸惑いを隠せなかった。
彼女に言われるがまま、目を閉じて両手を前に差し出した。
心臓がうるさいくらいに高鳴っているのがわかる。
「それと、絶対に、どんなことがあっても、あたしを抱きしめてください」
「……いいのか。けど、わかったよ」
ここまで来たら、何を言われても、彼女の儀式に協力しようと思った。
信頼してくれているのだから。変に慌てたりしたらだめだ。
「絶対ですよ。絶対に」
「ああ、絶対だ」
「絶対に、離れてはだめです」
彼女がこんなにも強く主張する理由が、レンドルにはわからなかった。だけど、彼女にとって大事な儀式なのは間違いない。だからこそ、彼女の願いを叶えたいと思った。
「わかったよ。きみを――抱きしめる。必ず」
言っていて恥ずかしくなる。女性を抱きしめたことなんてない。こんなにも美しい人を。
「ありがとう……。あたしの祝福が、レンドルさんの身体に満ちていくのを感じて」
そう言って、ジュカの両手がレンドルの両頬に触れる。
小さく優しい女性らしい手の感触と、ぬくもりが伝わった。
精霊紋の力が、レンドルに注がれていくのだろうか。
サンルードの聖跡で授かった加護の時のような、凄まじい力の潮流を想像していた。
すると、レンドルの身体が、じんわりと熱くなるのを感じた。
温かく優しさに満ちあふれた力が、レンドルの身体を、深い眠りから呼び起こしているような、不思議な感覚だった。
「目を開けて――」
ジュカの声に促され、レンドルは言われた通り、目を開けて彼女を見下ろした。
その瞬間、ジュカが唇を重ねてくる。
抱きしめるなんて、恥ずかしいと思っていた。誰かに見られたらどうしようかと考えていた。
でも、それどころじゃなかった。もう、頭の理解が追い付かなかった。
暗い夜にもかかわらず、彼女の美しい瞳が、琥珀色の宝石のように輝いている。
その眼が、レンドルに訴えていた。
だから、レンドルはジュカの背中に手を回して、そっと彼女を抱きしめた。
琥珀の瞳がゆっくりと閉じられる。
一筋の涙が雨に濡れた薄紅色の髪へと、静かに伝い落ちた。




