第90話 精霊の祝福をあなたに 3 ―― 銀青
レンドルの目の前には、黄色の双眸から殺気を立ち上らせた剣牙族の獣人がいた。
その口元からは白く鋭い牙が見え、獰猛な雰囲気を漂わせ始めている。
「赤髪――やっぱり殺すか」
レンドルは確かめたかった。サナロアをこの男が蹴ったと聞いて、いてもたってもいられなかった。
なぜ、そんなことをする必要があったのか。
皇国軍を相手に、何の恐れも抱かないこの男は何者なのだろうか。
「サナロアは俺の部隊の副官だ。なぜ蹴った」
「あ? 蒼い髪の女のことか。お前の女か」
鼻で笑ったガルルガの口元は不気味に歪み、見る者の恐怖を誘う。
喧嘩屋ベックは、それを折って賞金首になったらしい。
折って正解だったようだ。
「どうでもいいだろ。お前も、そいつも殺す――」
レンドルは魔力を一瞬で爆発させた。ガルルガの喉元に、長剣の切っ先が今にも届きそうなほど肉薄する。ガルルガは、大剣で首元を塞ぎながら、後ろへと跳ねて距離を取った。
ガルルガの背後には、タタがすでに回り込んでいた。彼は素早く右手に持った短剣で獣人の脇腹を突いた。短い悲鳴が上がった。
レンドルは突きを放つと見せかけて、左の拳で、大剣を握るガルルガの指を殴りつけた。グシャリという嫌な音と砕ける感触が、レンドルの拳に伝わった。
そのまま右手の長剣で両足を切りつけようとしたが硬い魔力防御に阻まれた。
ガルルガは前蹴りを放ち、レンドルはすぐに後退した。
あの手ではもう剣を強く握れないはずだ。それに、大剣を両手で持てないだろう。
背後にいるタタと連携をとれば、もう何もできないはずだった。
「ちッ。二人がかりか。いてえな」
ガルルガが砕けた手を見てそう言うと、大剣の刻印が強烈に明滅する。刻印魔法が発動したのだろうか。
獣人の上半身に複雑な紋様が青白く浮かび上がった。
凄まじい魔力の波動が周囲を包み込み、禍々しさが肌を突き刺してきた。
『ウグオオオオオオォォォオオオオオォォオオオッ!』
まるで、巨人族の傭兵ドッテヌーアの雄叫びのような、腹の底に響く咆哮だった。
銀青の光を宿した大剣の力が、獣人の身体へと流れ込んでいき、輝きを増していく。
ガルルガの筋肉が膨れ上がったかと思うと、目の前の男が徐々に巨大化していく。
同時に、全身に白い毛が生え始めた。
タタは素早く距離を取る。彼の耳はぴたりと寝て、警戒を表している。
「あ、ああ……ッ! あの時の魔獣! レンドルさん逃げて! みんな殺される!」
ジュカの悲鳴が聞こえたが、目を離すことができずレンドルは振り向かなかった。
その叫び声は涙に揺れている。恐れよりも悲しみがこもっていた。
もしかすると、ジュカのいた炎尾族が襲撃されたときに、巨人族の傭兵の他に、この魔獣がいたのだろうか。
全身に魔力を巡らせ脅威に備えた。禍々しい力に抗うために。
魔獣となった獣人は、前かがみになっているだけで、その巨躯はゆうに二メートルを超えている。
獲物を狙う獣の目つきで、レンドルを見下ろしていた。
軍相手に恐れなど感じる必要はなかった。
むしろ恐怖を振りまく存在になっていた。
さらに大きくなった牙がむき出しになった。その大きさだけ見ても人の頭を噛み砕くには十分だった。
白い体毛の狼が、青い月の光に照らされている。
一瞬、銀狼と見間違えたほどだ。
レンドルの心の奥底から、昏い何かが身体を這い上がってくる。
それを抑える気はなかった。
身体が焼けつくような熱と痛みが神経を駆け巡る。
『兎は噛み砕くのが一番美味い』
低く野太くなった剣牙族の獣人の声は、魔獣のような唸り声と混じっていた。
『赤髪の百人長。お前の女の腹は美味そうだったな。アーッハッハッハッ!』
「だ、だめ……みんな――逃げてッ!」
ジュカの振り絞るような声が背中から聞こえる。
イステアたちは、言葉を失い、信じられないといった様子で目の前の光景を見ている。
狼の魔獣がそこにいた。
魔獣は青白い光を放つ大剣を、まるで棒きれのように片手で振り回している。
砕いた指は何事もなかったかのようだ。
そして、踏み出すと石造りの地面を砕きながら、レンドルに突進してきた。
レンドルは極限まで魔力を高め、凄まじい集中力で魔獣を捕らえていた。
周囲の世界が遅い時間の中に浸かっているかのように見えた。
魔獣は圧倒的な速さだったが、今のレンドルには止まって見えるほどだった。
レンドルの後ろにはジュカがいる。
黄金騎士の時と同じだった。避けられるはずがない。躱すことなど許されない。
迫りくる狼は、右へ左へと不規則にステップしながら確実に距離を詰めてきている。
今度は剣を投げつけるわけにはいかない。
黄金騎士の纏う魔力は膨大だったが、この魔獣とは比較にならないほど、濃く強大だった。
心が燃えている。身体が燃えている。血が煮えたぎる。
レンドルは、狼に向かって真っすぐに踏み込んだ。
――狼を、殺す。
その身体からは銀色の魔力と一緒に、昏く紅い魔力が滲みだしていた。




