第88話 精霊の祝福をあなたに 1 ―― 赤雷
レンドルの身体にはまだ熱があったが、夜風が涼しく、心地よかった。
ぽつぽつと、雨が降り出していた。
風に運ばれた細かい雨が髪や頬に当たるが、すぐに乾いていった。
星空を覆う雲の切れ目は遠く、本格的な雨をもたらす雨雲はまだ先だ。
そして、空が光るのが見えると、ほんの少し遅れて轟音が聞こえる。
深夜か、朝には激しい雨が降るかもしれない。
女商人ペルギアと別れた後、レンドルは監視塔の一つへと向かっていた。
そこは、レンドルの部隊が今夜を過ごすことになっている場所だった。
夕食を取る時間がなかったせいで、空腹を覚えていた。
硬いパンに、ぬるくなったスープでもいい。
今は少しでも口にできれば、それでよかった。
篝火の近くで、赤い羽根突き帽子が揺れるのが見えた。
ペルギアに聞いた名前をすぐに思い出した。奴隷商人のエドマンと言っていた。
「いいからこい!」
その男が、あろうことかジュカの手首を掴み、無理やりに引きずっているのが見えた。
「離して!」
悲痛な叫び声は、ジュカのものだった。
エドマンの周りには、冒険者風の男と女が五名、武器を構えていた。
奴隷商人を守るような様子で、皆随分と装備がよさそうに見える。
その周りを囲むように《酒樽と蒼い狐》の旗が掲げられている。レンドル部隊に組み込まれた傭兵団だ。
傭兵たちは殺気立ち、おのおのが武器を手にしていた。
十人ほどの傭兵たちが、今にも飛びかかりそうな勢いだが、なぜか躊躇しているようにも見える。
「いいか、俺は正式な依頼を受けてるんだ。邪魔をするな!」
エドマンが大声で叫んでいる。ジュカを連れ去る依頼ということか。すぐに剣牙族の依頼だとわかった。
サナロアの姉イステアが剣を構えているが、その存在感はまるでサナロアが立っているかのように見えた。
イステアのそばには、傭兵団の団長が腕を血に濡らし、苦悶の表情を見せている。団長の視線の先には、ジュカがいる。
団長の足元には幅広剣が落ちている。利き手を斬られたようだった。
不思議なことに、奴隷商人エドマンからは異質な魔力を感じた。その気配は異様で、レンドルの肌を刺すようだった。
放たれる力は強くもなく、厚みもない。ただ、小さく刺すような痛みが、本能的にその男に近寄るなと告げていた。
傭兵たちもこの異質な魔力に当てられ、本能的に危険を察知しているのかもしれない。
なぜ商人から、それほど異質なものを感じるのだろうか。
そして、冒険者たちとは別に、洗練された魔力を纏った男が、大剣を肩に乗せて立っている。
魔力は静かに揺れていて、それでいて大きな濁流にすぐにでも変わるような、得体の知れない恐ろしさが襲う。
短く切りそろえた白髪の男、一目でわかる獣人の顔立ち。
上半身は裸で、浮き出た強靭な筋肉が鋼のように引き締まっている。
その男が持つ分厚い剣の腹には、刻印された文字がびっしりと刻まれ、淡く青白く光っている。
レンドルの信頼する傭兵、灰兎族のタタと白髪の男が対峙していた。
タタからも、研ぎ澄まされた魔力が溢れ出し、周囲にまで及んでいる。
明らかな殺気をその獣人に向けている。タタが、これほどまでに殺気を放つことなど見たことがなかった。
つまり、相手の獣人は敵だ。
レンドルの身体は、燃え上がるような感覚そのままに、駆けだした。
腰の鞘から長剣を抜いた。
金属音が風に乗って届いたのか、それとも魔力を感じ取ったのか、その獣人がレンドルの方を向く。
鋭い黄色い双眸。尖った獣の耳がピクリと反応する。
「なんだこの魔力!? だれだッ!」
獣人が吠える。開いた口には、鋭い牙が見えた。
――まさか剣牙族!
その直後にエドマンが叫ぶ。
「あ、赤髪! おい、ガルルガ! あいつを何とかしろ!」
獣人族の男は、ガルルガというらしい。
「目の前にいるのは灰兎族――無音のタタだ。並じゃねえんだ。お前の雇った護衛たちでなんとかしろ」
タタは二つ名持ちだった。なるほど、気配もなしに近くにいることがある。
レンドルは腰ベルトから素早くナイフを抜き、ガルルガに向かって投げつけた。
刺さる必要はない。タタならそれを利用して、うまくやる。
予想通り、それに合わせてタタは男の背後へと音もなく一瞬で回り込んだ。
しかし、男はレンドルの投擲したナイフを容易く素手で打ち払うと、体を反転させて器用にタタの攻撃を受け流す。直後、大剣が薙ぎ払われる。反射的に身を伏せたタタの頭上を、大剣が通り過ぎていった。
奴隷商人の護衛と思われる冒険者の一人が、レンドルの前に現れ、すぐに剣を払ってくる。
容赦のない鋭い斬撃に、レンドルは殺しにかかってきていると悟った。
この冒険者だけが手練れだとわかった。
レンドルは剣を受け流し、長剣の柄で頭部を打ち付けた。鈍い音とともに、冒険者はその場に崩れ落ちた。
最短で殺しにかかった点は見事だが、狙いが単純すぎる。残りの護衛たちも慌てて武器を振るうが、レンドルはあえて集団の中へ突っ込んだ。
連携も牽制もない寄せ集めなど、恐れるに足らない。
すべての攻撃を受け流し、籠手のない手足を切り払い、体当たりで体勢を崩していく。瞬く間に、護衛たちは次々とうめき声を上げて蹲った。
ガルルガとタタが剣を打ちあっている。
大剣が棒きれのように振るわれるが、タタは難なく対応している。
タタの動きは別格だ。
敵の懐にタタが潜り込もうとするが、白髪の獣人の見事な体術に、タタの短剣は空を斬る。
ガルルガの鋭い膝蹴りを回避すると、タタは距離を取った。
「レンドル。こいつ、サナロアを蹴り飛ばして怪我をさせた。ジュカが治療しようとしたら、その商人が連れ出した」
タタは両手の短剣の柄をカチリとぶつけ鳴らして言った。
その言葉に、レンドルの背筋に、ぞわりとするような冷たい感覚が走った。
タタの簡潔な説明で状況を把握できた。連れ去るジュカを助けようとして、サナロアが蹴られた。
それを見た姉のイステアが剣を抜いた。獣人が切りかかって、傭兵団長が庇ったのか。
大体そんなところだろう。もう、それでいい。
レンドルはエドマンに詰め寄った。
「奴隷商人のエドマンだな。ジュカの手を離せ。今すぐにだ。伯爵の両手は落とさなかったが、今度は何の躊躇もないぞ」
氷のように冷たいレンドルの威圧にエドマンの顔が引きつる。
脂汗を流しながらも、必死にジュカの腕を握りしめたまま言い返した。
「護衛が一瞬で……クソッ! こいつは逃亡奴隷だ。だから捕まえたんだ。俺は正規の依頼を受けてるんだぞ」
そう言うと、エドマンがジュカの手をさらに引っ張る。ジュカは逃れようと抵抗しているが、叶わない。
レンドルは鋭く踏み込み、奴隷商人の手首を切り払った。何のためらいもなかった。
引っ張り合う力が一瞬で失われ、勢い余った二人はその場に尻餅をついた。
次の瞬間、レンドルの身体から赤い光が迸り、ばちばちと激しい音が響いた。全身を赤い稲妻が駆け抜ける。
声を上げる間もなく、その場でレンドルは膝をついて、動けなくなった。
何が起きたのか、まったくわからなかった。
魔法の攻撃を受けたのか。奴隷商人から感じた異質なものの正体だったのか。
全身には凄まじい激痛がいくつも走った。
視界は完全に奪われていた。
耳には耳鳴りだけが響いていた。
レンドルの脳裏には、蒼髪のサナロア、そして銀髪のジークの泣き顔が、代わる代わる浮かび上がっていた。
意識が遠のいていく。途切れるのは、もう時間の問題だった。




