第87話 夕日の沈む死者の国 21 ―― いつか、鎖を断ち斬る日まで
中層回廊に作られたサンガード皇国の臨時本部には、今も灯がともる。
石造りの壁と軋む木の床の部屋で行われた会議が終わり、レンドルたちは出てきた。
女商人ペルギアに連れられて石造りの回廊を歩く。差し込む青き月の光に、監視塔の影が濃く落ちていた。
空を見上げれば、広大な夜空に輝く無数の星。ジークが話してくれたあの星々を、今は一人で見ていた。
振り返ると、会議室から続々と人が出てくる。皆、疲れた顔をしていた。
最後に出てきたのは赤い羽根付き帽子の商人で、こちらに気付いたようだった。
少し離れてはいるが、鋭い目でこちらを睨んでいるのがわかった。
あの男は、最初に「商売の邪魔をするな」とレンドルに言いがかりをつけてきた商人だ。
レンドルは顔を背け、ペルギアに並んだときに、あの男のことを教えてもらった。
「あの男はエドマン。サンガードの奴隷商人よ」
レンドルは大きくため息をついた。奴隷商人と聞いて、すぐさまジュカの顔が頭に浮かんだ。
「なぜ奴隷商人が戦場に来ているんだ?」
「戦争に負けた側は、金銭や人質の交換のために捕虜になるか、奴隷になるんだ。もしくは短剣一本渡されて見逃される。捕虜を抱え込んでも食糧事情が悪化するからね。昔は皆殺しなんてことを、かの黄金騎士がやっていたらしい。皇国では奴隷商人も税を納めれば活動できるし、ラクロアンでも奴隷は合法よ」
「それで俺に文句を言ってきたのか」
ラクロアンとの同盟が結ばれれば、陸路での交易が可能となる。奴隷も商品の一つと捉えるエドマンにとって、今回の結託は大いなる商機に違いない。
「あの男は陸路でしか商売ができない。商人ギルドの制約だけじゃないのさ。海路を使うには海運ギルドの許可が必要になる。だからこそラクロアンとの同盟は、あの男にとって、とても大事なことだったのよ」
外の暗闇を払うように、沢山の篝火が焚かれている。その中をしばらく行ったところで、ペルギアが立ち止まる。
「ねえ、レンドル。思い通りにいかないことなんて、よくあることよ」
女商人は慰めてくれようとしているのだろうか。これも、彼女を雇った銀貨十枚の代価に含まれているのだろうか。
すべてを金と結びつけてしまい、思わず笑いそうになる。せっかく彼女が助けてくれたというのに。
「正しい選択をしても、人の心は自由にはならない」
女商人は、レンドルの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「レンドル。ジークはラクロアンの見えない鎖に繋がれたまま、奴隷のように生きることを望んでいると思う?」
強烈な言葉だった。奴隷という響きが、レンドルの心に深く突き刺さる。襲い来る苦痛に顔が歪んだ。
「そんなわけがない。でも、彼女はそれを選択した。俺が、そうさせてしまった」
「そうね。レンドルが伯爵を脅したから、そうなった。だけど、レンドルとジークの物語は、これで終わりじゃないんでしょう?」
「よしてくれ。物語なんて、伯爵の言葉みたいだ」
思わず女商人の問いかけを振り払った。
「さっき、それを断ち斬ろうとした。だけど、それは間違いだった。姫を助ける騎士が、みすみす伯爵に渡す手助けをしたようなものだった」
必要のない例えですら、うまく言葉にできない。もどかしい気持ちが胸の奥で渦巻いている。
「違うのよ」
「違う? 何が違うんだ」
「あなたは正しい選択をした。ジークを守るという選択を。そして彼女はレンドルとの繋がりを選んだ」
「どういうことだ」
「もし、あなたが本当に伯爵の両手を切り落としていたら、どうなっていたと思う?」
グリフォート騎士団長も個人の問題だと肯定していた。だからといって、ラクロアンが黙っているはずがない。アイアンロック王国との関係の悪化も必至だ。
「……アイアンロックか、それともラクロアンとの戦争か」
「戦争になるかどうかはわからないわね。関係は悪くなるでしょうけど。もし戦いになったとしても、軍事力で勝っている皇国が勝つかもしれない。でもそれは、ジークにとって必要なことじゃない」
「ジークにとって必要なのは、保護区にいる仲間たちだ」
「ううん。そうじゃないの。ちょっと考えてみて。この要塞で、レンドルとジークは偶然出会い、新しいつながりができた。もし伯爵が保護区のエルフを傷つけたり、あるいは殺すようなことがあれば、あなたとの繋がりは、とても悲しいものになってしまう。それは、ジークが望むことではないはずよ」
「それは――」
思わずレンドルは言葉を失った。
「だから、仲間を守る鎖に繋がれたまま、レンドルとも繋がることを選んだ。『あなたのことを』って言っていたでしょう。それに『またね』とも。ジークはなんて言おうとしていたのかしら」
「……わからない。あなたのことを……。――待っている。まさか、そう言おうとしたのか」
「きっとそう。でも、それ以上は言えなかった」
女商人の口から出る言葉が、レンドルの全身を揺さぶった。
ジークは、仲間のエルフたちのために、ラクロアンに戻らざるを得ないと思っていた。
だけど、それだけではなかった。自分自身との繋がりを、大切なものとしていた。
胸が苦しくなる。あの涙は――あの時流した涙は、レンドルのためのものだった。
「何もしなくても、どこかで会うかもしれない。だけど、彼女からは、レンドルには会いに行くことはできない」
「無理に決まってる。ああ、ジークは自由に動けない。なら――俺が行くしかない」
だから『またね』と言葉にした。ジークは、レンドルに助けを求めている。
「俺だって助けてやりたい! だけど、何ができるっていうんだ! 俺にどうしろっていうんだ――ペルギア!」
「私にもどうすればいいかなんてわからない。でも、二人の物語を見せてほしいの」
「俺たちの……物語」
今度は、その言葉を振り払おうと思わなかった。
「あなたたちは、恋人同士でも、愛し合った仲でもないんでしょう? この要塞で偶然出会っただけ。でも、惹かれ合った。少なくとも私は、二人に特別なものを感じた。でなければ、伯爵と揉めたりはしない」
女商人とレンドルは、会議室で会ったばかりだ。ジークと会うのも初めてだったはずだ。
だが、あの短い時間の中で、ペルギアは何かを感じ取ったらしい。
「悪い魔法使いに連れ去られたエルフを救う、ある騎士の物語。その続きを、結末を私に見せてほしいのよ。彼女を縛る鎖を断ち斬り、ジークを救う物語を」
レンドルの身体が少しずつ熱を帯び、心臓の鼓動がはっきりと聞こえてきた。
自分自身に向けて熱くなった怒りではない。その胸に、燃えさかる炎のような力を感じた。
「レンドルへの個人依頼よ。あなたにしかできないもの。報酬は、銀貨十枚」
ペルギアを加護代わりに雇った対価と同じだった。
「どうしてだ。ペルギアは儲からないじゃないか」
「私自身も似たようなことがあった。でも、助けてくれようとした人は居なかった。だから、私も誰かに救われたいのかしらね」
ペルギアはそれだけ言い、寂しげだが楽しそうに笑った。
宮廷魔術師のロズベルグに、酷い目にあわされたことがあると言っていた。おそらくそのことだ。
「期限は、私が生きている間よ。引き受けてくれる?」
何もしなくても、和平交渉さえまとまれば、保護区のエルフたちは森に帰ることができる。
そうすればジークも戻れるはずだ。
だけど、単純なことのように見えても、ラクロアンがジークをやすやすと手放すとは思えない。
そもそも、和平交渉があるということ自体が疑わしい。
何ができるのかがわからない。
何から始めればいいのかすらわからない――それでも。
「引き受ける」
心の底から、自分の声を聞いたような気がした。そして、両手の拳を握り締めた。
ペルギアは両目を閉じた。口元を隠す薄いベールの奥は、夜の淡い光ではよく見えない。
しかし、レンドルには彼女の優しさを感じることができた。
夜空に浮かぶ星々を仰ぐ。そのわずかな隙間に、ひとつの光が灯るのが見えた。
星は生まれることもあるとジークが教えてくれたが、それは本当だった。
ただ、少し滲んでよく見えなくなった。




