第86話 夕日の沈む死者の国 20 ―― 守りたかったもの
どうして、ラクロアンに戻るとジークは言ったのか。
それだけを考えていた。
伯爵のことなど、もはやどうでもよかった。
ただ、ジークやエルフたちに危害を加えないように、この男の目に、焼き付けておく必要があると思った。
「俺の剣は、いつでも届く。……忘れるなよ。両手じゃない。伯爵、お前の首にだ」
「わ、わかった」
伯爵の声は、震え、上ずっている。この男の浅い呼吸に、耳を汚される気がした。
「ロズベルグ伯爵、明日そっちに行くから……」
ジークが、涙を拭いながらそう言う。気丈に振る舞おうとしている。胸が苦しい。
彼女が一番つらいはずなのに。
「それでいい。わ、私はこれで失礼する」
伯爵は、逃げるように踵を返す。十分脅しになったはずだ、そう思いたかった。
レンドルは立ち尽くすしかなかった。
伯爵が出て行った扉のない入り口を、茫然と見つめていた。
「夜は遅い、解散だな」
騎士団長の声が、なんとも言えない重苦しい空気を緩める。
「ジーク殿には、護衛に騎士のダロムとザッサをつけよう」
レンドルは「わかりました」と小声で応えた。鎮まった部屋には十分だった。
「それと、礼を言わねばならん。氷で門を塞いでくれたこと、深く感謝をする。ジーク殿がいたからこそ、我々は明日の日の光を見ることができよう」
そう言って、グリフォート騎士団長は立ち上がり、敬礼をする。
指揮官たちもみな、それに倣う。みんなが、彼女がしたことの意味をわかっていた。
レンドルも、ジークに視線を向けた。一呼吸のあと、ぎこちなく敬礼をした。
彼女を送る役目を、レンドルも担いたかったが、口に出すことができなかった。
道すがら何を話せばいいのか、わからなかったからだ。
その選択すらも、間違っているんじゃないかと、怖くなった。
伯爵が、逃げるようにこの部屋から出ていった。それと、自分は何が違うというのだ。
ジークがダロムたちに連れられていくのを、ぼんやりと見送っていた。
部屋の入り口まで歩いたところで、彼女は足を止めた。
「ありがとう、レンドル。またね」
彼女は振り返らなかった。歩き出す背中に合わせて銀髪が揺れる。風はない。
「大隊長は残れ。明日について少し話をしたい」
脱力していく身体を騙して、もう立っていることなどできそうになかった。
すぐにでも座り込んでしまいたかった。
「こんないい男を振り回すなんて、ジークはいい女ね」
ペルギアが、レンドルの横に並んで囁く。
「振り回されていない。彼女は何も悪くないんだ。俺が間違っていただけだ……」
レンドルは、力なく答えた。ペルギアの鋭かった目が和らいでいる。
優しい眼差しが、なんだか今は辛かった。
「違うわ。あなたが必死に守ろうとした彼女は、ただ守られるだけの弱いエルフじゃない。自分で選んでラクロアンに戻ることを決めた。いっしょに戦えるってことよ」
彼女の言葉が、胸に突き刺さる。自分は彼女をどうしたかったのか。
ジークの怯える手を取り、連れ出すことだけが、やりたかったことじゃない。
守りたかったのは、彼女の意思だ。
それを奪おうとした、ラクロアンに憤っていた。
「少し前に、ジークから色々教わったんだ。知らないことばかりだった。かけがえのないものだった。銀貨十枚以上の価値だったよ」
レンドルはぽつりと、寂しげに語った。
それを受けて、ペルギアが騎士団長に声をかける。
「グリフォート騎士団長。レンドル殿を少しだけお借りしても、いいかしら」
「いいだろう。では解散だ。ゆっくり休んでくれ」
女商人は、裾を掴みながら、片手を胸に頭を軽く下げた。
「レンドル。外で話しましょう」
「ああ……」
ペルギアが、先に歩き出す。それに連れられてレンドルも後を追った。重い足に魔力を流しても、きっと軽くはならない。
重さは変わらないのに、木の床が軋む。レンドルの心も同じように軋んでいた。




