第85話 夕日の沈む死者の国 19 ―― 力があっても、思い通りにはいかない
もう外は真っ暗になっているはずだ。
訓練兵の朝は早い。こんな時間に起きているなんて考えられないことだった。
ほんの数日前までは。
夕食も食べていない。だが、空腹は感じていなかった。
目の前にいる男への怒りがそれを忘れさせていた。
「しょ、正気か? レンドル殿――」
宮廷魔術師の声は、ひび割れている。レンドルの長剣は、まだ下ろしたままだ。それでも、後ずさる足が石畳を擦る。
「伯爵は、力づくで払わせると言っただろ。冗談で俺を脅したのか」
レンドルは、剣を下げたまま一歩踏み出した。
「ま、待て」
伯爵が両手を挙げる。指先が小刻みに震えている。
「ジーク殿!」
悲鳴に近い声で、伯爵がジークの名を呼ぶ。
「レンドル……わたし――」
震える声が、レンドルの耳に届く。
そして、レンドルは、彼女がこの後に口にするであろう言葉が予想できてしまった。
「戻るから」
彼女は、ラクロアンに戻る決断をした。
レンドルは自分のしたことが、彼女の気持ちを大きく揺れ動かしたことを理解した。
彼女はラクロアンから離れて、サンガードにいる父親の元へと向かう。そしてエルフの森に戻る。そうなることを望んでいるはずだ。
どこで間違ったのだろうか。何がそうさせたのか。
考えようとしても、答えがわからないままに、混乱していた。
商人からも、皇国の指揮官たちからも、どよめきが沸き起こる。
「おぉ! それは良かった。レンドル殿、ジーク殿は戻ると――ひぃッ!」
レンドルは、剣を上げ伯爵の首元に突きつけた。
安堵に緩んだ悪党の顔が、また強張る。
「ジークが戻ることと、俺への侮辱とは関係がない」
本当はこんなことをしても意味がない。伯爵の言った侮辱など口実だ。彼女は戻ると言った。
その悔しさが、レンドルを駆り立てる。
その思いが、剣先を加速させた。
刃が、伯爵の首の横をすり抜ける。
薄皮一枚を斬った。
「待って! レンドル!」
ジークが大きな声で叫ぶ。
「わたし、あなたのことを……」
ジークの声が崩れる。両手で口元を覆い、それ以上は言葉にならないようだった。
「レンドル。真に彼女を思うなら、その剣を納めたほうがいいわ」
ペルギアが、静かにレンドルを諭す。
レンドルは伯爵から剣を引き戻した。ジークの銀瞳が、涙で揺れていた。
要塞の外で、同じように口を覆い、涙を流し、喜びに満ちていた彼女とは違う。
悲しみに震え、苦しみに涙し、望まないラクロアンへの協力を選択する。
祈るように両手を組み、震えている。
レンドルは歯を食いしばった。ぎり、と歯がきしむ。
長剣を鞘に納めた。金属が擦れる、乾いた音だけが響く。
彼女が望まないなら、もうそれでよかった。
レンドルの冷えた心は、急激に温度を取り戻し、背中が熱くなった。
これまで怒りに身を任せて戦ってきた。それは、仲間を傷つけた相手に対してだった。
今、この熱は自分自身に向けられている。どこにも行けない熱がこもった。
「レンドル――ごめんね。ごめんね」
繰り返す謝罪に、レンドルは首を振ることしかできなかった。
彼女が謝る理由などないのに、そう思わせてしまった自分を殴りたかった。
今更それがわかったところでもう遅い。彼女の選んだ道は曲げられない。
銀狼に母を殺されたときは、恐怖と絶望に支配されるだけだった。
小さかったとはいえ、力のない自分を呪った。
だが、加護の力を得て、魔力を扱うことにも十分な自信が付いた。
未だに信じられないが、強敵をも倒せた。
力を得たからこそ味わう、胸を締め付けるような無力感は、初めて味わうものだった。
どんなに力があっても、思うようにいかないこともあると知った今、ただただ苦しいだけだった。
この手で彼女の手を取ったのに。
自分の剣のせいで、その手が離れた。




