第84話 夕日の沈む死者の国 18 ―― あと少しだけ狂えばいい
「ジークは、ずっとラクロアンに脅されていた。俺に誘拐したも同然と言っていたが、その言葉をそのまま返す」
「参りましたなあ。誤解があるようです」
とぼけた言葉と同時に大げさに肩をすくめてみせるが、その顔からは明らかにレンドルへの敵意が感じられる。
「言葉巧みに、こちらが悪いような印象を与えようとしていたが、もうそんな話は通用しない。誘拐したと、俺を侮辱したな。俺は許す気がない。それ相応の対応をさせてもらうぞ」
「ほう。どうするというのですか。国は違えど、家の格が違うのはわかるでしょうに」
伯爵という地位はレンドルの家の遥か上だ。しかし、レンドルはそんなことを気にも留めていなかった。
この場は、家の格では解決しない。伯爵もわかっているはずだ。
「一つ聞かせてもらう。伯爵は、まだジークを連れていこうというのか。ジークがラクロアンに行くと思っているのか?」
伯爵は、当然だと言わんばかりに続ける。
「もちろんです。タダで保護区に資金を出しているわけではないのです。彼女の、そうあの両手には、保護区のエルフたちを支えてもらわねばなりませんからね」
「たった一人の少女に、そんな重いものを……」
「それだけ優れた魔法を使うのですから。それに、彼女はエルフの森の評議員の娘ですから当然です」
彼女の父ネオネスは、評議員だったらしい。つまり、それ相応の地位がある人物ということだ。
具体的なことは知らないが、王制ではなく、エルフの森は議会制で国を治めていると兵学院で学んだ。
だからこそ、その娘であるジークにも保護区のエルフを助ける責任がある――伯爵はそう言いたいのだろう。
父親の身分が、そのまま娘の義務になる。
そんな理不尽な論理に、レンドルは呆れてしまった。
「じゃあ、伯爵の両手は何のためにあるんだ。宮廷魔術師なんだろ。何も持たないその両手は何のためにある」
伯爵は一瞬だけ眉をひそめるが、すぐに鼻先で笑い飛ばす。
「戦場で教育を受けたと言っていましたね。比喩もわからないとは。ジーク殿は連れて帰りますよ」
「俺が断ると言ったら」
「被害の賠償請求をすると告げたはずです。またその女商人に金を借りるのですか」
「払う気などないが、どうする?」
伯爵は笑みを崩さないまま、静かに言う。
「皇国は関わらないのでしょう? 仕方ありませんが、彼女を連れて帰るのも、賠償請求も力づくですね」
ついに暴力を口にした。
自領の武力もあり、宮廷魔術師ならば相当の実力者のはずだ。
この男なら、力づくで従えることも可能だろう。
だが、ここからはレンドルの土俵だ。その言葉を待っていた。
この男は、脅しが通じたつもりでいる。
今まではそれで通じていたのだろう。
あの皇妃と同じだ。妹のフィーネを人質に取られて、歩みを止めてしまった。
近衛騎士たちを押しのけ、皇妃まで辿り着けたはずだ。
妹が殺されるはずはなかったのだ。でなければ、人質の価値がない。ただの脅しだ。
それをわからなかった。力と覚悟が足りなかった。皇妃に見透かされていた。
だが、今回は違う。
ジークは、そばにいる。
この要塞で戦い、加護の力も十分扱えるようになった。
戦いの中で、何度も覚悟は決めてきた。
あと少しだけ、狂えばいい。それだけだ。
「そうか。なら俺も伯爵に賠償請求をする。今この場でな」
「ほう! 何を言うのかと思えば私に? なんの賠償請求をするというのか」
「俺を侮辱した。おまけに、伯爵の詭弁を暴くために、借金までして商人を雇う羽目になった」
伯爵は、また大げさに肩をすくめてみせる。持ち上がったローブの隙間から、腰に細身の剣が見える。
アイアンロック王国の独立のために戦った歴史を考えれば、剣も扱えるのだろう。
だが、戦場で使ったことはないのだろう。レンドルには、そんな確信めいたものがあった。
でなければ、この戦場で死地を超えてきた自分に、武力の脅しが通用すると思うはずがない。
この男の目からは、覚悟も何も感じられない。言葉の延長線上にある。
「ああ、それは失礼をしました。ですが勝手に商人を雇ったことを人のせいにしないでいただこう。……つまり、その賠償として銀貨十枚を支払えというわけですね」
だが、レンドルは静かに首を振った。
もう言葉だけでは終わらない。
この男は、言葉では引かないだろう。
「両手だ」
「ん? 両手に乗せられるほどの銀貨をよこせと?」
レンドルは、腰の剣の鞘に右手をかけた。金属が擦れる音が小さく鳴った。
伯爵の目がその動きを追う。そして、すぐにレンドルを凝視する。
「違う。伯爵の両手を落とす。役に立たない両手を、片付けてやると言っている」
伯爵の顔が一瞬で歪む。その眼には、焦りの色が浮かぶ。
「私の両手を? ば、馬鹿なことを。皇国はラクロアンと戦争したいのですか」
「騎士団長は、皇国は関与しないと言っていた。これは、俺と伯爵の個人の話だ」
レンドルが一歩伯爵に歩み寄った。
「最初に喧嘩を仕掛けてきたのは、伯爵だ」
伯爵の眼が大きく見開かれる。そして、慌てて一歩下がる。
「そんなことが――で、できるはずがない。いきなり何を言う」
「知らなかったのか? 俺はこの遠征前に、皇妃を殺そうとして懲罰兵になったんだ」
怯える伯爵の目が濁る。レンドルは、その眼を知っていた。
あの黄金騎士が最後に命乞いをしたときの色だ。
死の恐怖に怯えたときの眼の色だ。
「こ、公爵! この男を止めないのですか!」
グリフォートは、腕を組んだまま答えた。
「個人の話だ。それに、黄金騎士を一人で倒す男を、儂がどうやって止めるのだ」
伯爵は、小さく息を飲み込む。どうやらこの男は冗談で言っているのではない。そう悟ったのだろう。
「俺の借金は金で返せるが、あんたの両手は戻らない。賠償請求を力づくで払わせると言ったのは――」
レンドルは、長剣をゆっくりと鞘から引き抜いた。燭台の揺らめく炎が、冷ややかに澄んだ刃に映り込む。
「お前だ。悪党の魔法使い」
周りにいる皇国の武人たちは、微動だにしていない。後ろに控えている商人や、ペルギアはどんな顔をしているのだろうか。
レンドルはジークの顔を見ないことにした。あの悲痛な瞳を見てしまったからだ。
目と目が合ってしまえば、優しい彼女のことだ。凄惨な光景になる前に、彼女は止めに入ろうとするかもしれない。
だが、レンドルは知っていた。彼女のその優しさが、彼女自身を苦しめていることを。
「どうしても連れて行きたいなら、俺のようにジークの手をとればいい。その手があればな」
目の前の伯爵が両手を失い、泣き叫ぶ姿を想像しても、レンドルの胸は少しも痛まないだろう。そう思った。
このコルタナ要塞で、何人も斬り殺してきた。驚くほど、心臓は静かだった。
すべてを断ち切るには、無理にでも冷徹になる必要がある。
彼女の放つ魔法の氷よりも、もっと冷たく――。




