第81話 夕日の沈む死者の国 15 ―― 悪役の戦い方
ジークは、外套の端を強く握りしめたまま、動かなかった。この男と口を利くことを、彼女ははっきりと拒んでいる。それが、レンドルにはわかった。
なら、自分が矢面に立つしかない。
姫を救った騎士気取り、か。好きに言えばいい。物語の登場人物だというなら、なってやる。だとすれば、目の前のこの男は、さしずめ悪役の宮廷魔術師といったところだ。
今は剣で語る場ではない。言葉で殴りかかってくる男に、言葉で応じるしかない。だが、退くつもりはなかった。
「ジーク殿の返還を、正式に申し出ます。皇国の名誉に懸けた抗議だと、そう受け取っていただいて構いません」
彼女をラクロアンに引き渡すことが、なぜ皇国の名誉に関わるのか。レンドルには、その理屈がまるで見えなかった。
「本人が、ラクロアンから離れたいと言っているんだ」
「ジーク殿とは、契約を交わしているのですよ。エルフ保護区の協力者として、ね。近く、エルフの森へ戦争孤児や負傷者の帰国交渉が始まる。それまでは、ジーク殿にラクロアンへ協力していただかねばならない。それを、レンドル殿が邪魔をしているというわけです」
保護区の話は、ジークから聞いたことがあった。ラクアが巨人族の傭兵に吹き飛ばされたあと、彼に治癒魔法をかけていたエルフがいた。アルティドとかいう若い治癒士だ。あの治癒士は保護区育ちだと、ジークは言っていた。
「契約? どんな内容だ」
「あなたに話す義理はない。ジーク殿が戻らなければ、保護区の民をエルフの森に返すこともできなくなる。つまり、和解交渉そのものが頓挫する。……なるほど、皇国はエルフの森と敵対している立場だ。だからこそ我々とエルフの森の仲を裂きたいのですかな。レンドル殿は、若いのになかなかの戦略家だ」
「そんなわけないだろう。たった一人のエルフに、国家間の交渉を賭けるなんて馬鹿げてる」
「保護区の生活を支えているのは、ラクロアンの資金です。あなたがその肩代わりでもできるとでも? ジーク殿の魔法は、あなたも目にしたはずだ。あれがどれほどの実力か、わからないあなたではないでしょう」
「俺が肩代わりする理由がどこにもない。ジークは優れた魔法使いだが、それが契約とどう繋がる」
「屍人になった黄金騎士の首を落としたのはレンドル殿だ。だが、実際にはジーク殿一人で片をつけたも同然、との報告を受けている。もちろん、生前の黄金騎士を討ったのがあなただという事実は揺るぎません。だからこそ我々も、彼女に協力を仰いでいるわけです」
言葉が続かなかった。契約の中身は、結局何一つ語られていない。保護区の生活費の話が、いつの間にか論点になっていた。
レンドルが、どう話をすればいいか、決めかねていると、伯爵はその隙を逃さず、すぐに次の話へ移った。
「ジーク殿がラクロアンに協力しているからこそ、保護区の民は生きていられる。その関係を一方的に破棄するというなら、それ相応の対応を取らせてもらう。ラクロアンとて、慈善事業でやっているわけではありませんのでね」
考える間もなく、話は次々と形を変えていく。
「サンガード皇国がエルフと敵対したことで、人族とエルフ族の仲は拗れた」
この男の口は止まる気配がなかった。
「その修復の道を作ろうとしているのが、我々ラクロアンだ。もっとも、ルベリア王国がエルフの強硬派と手を組み、サンガードの皇帝暗殺を主導したことで、事態はさらに厄介になった。だが、ラクロアンがサンガードと組んでこの要塞を落としたこと自体が、エルフの森との和平に向けた、我々の誠意の証だ」
もっともらしく聞こえる。だが、それはあくまでラクロアンにとって都合のいい筋書きのようにも聞こえた。
まずい。話がまるで頭に入ってこない。
「同じエルフの森でも、一枚岩ではない。我々の和平の相手は融和派だ。エルフ全体を敵に回す必要など、どこにもない」
初めて聞く話だった。人族と同じように、エルフの森にも派閥がある。レンドルはそのことすら知らなかった。
ジークが語っていた「歴史を知る」ということは、ただ過去を知ることではない。今この瞬間、動いている世界を理解することだったのだ。
ジークは戦いを望んでいない。融和派の側にいるのだろう。そうでなければ、レンドルと言葉を交わすことさえなかったはずだ。
だが、彼女の力がなければ、保護区のエルフたちはどうなる。
契約を選んだのは、ジーク自身なのだろうか。それでも、その選択が辛くないはずがなかった。
ラクアが下していた命令は、この契約に関わるものだったのか。
――いや、違う。
何を納得しようとしていたんだ。レンドルは、自分が無理に筋を通そうとしていたことに気づいた。
あのとき、レンドル自身も感じたはずだ。ラクアの命令とともに見た青い光。あれを浴びた後、身体の自由を奪われかけた感覚があった。契約など交わしていないレンドルが、だ。あれは契約の効力などではない。何らかの力、おそらく魔法だ。
なら、ジークもまた、契約に縛られていたわけではない。彼女はあの力そのものから、逃げようとしていたのではないか。記憶が曖昧になっていくのも、その影響だとすれば説明がつく。
契約を破ったのなら、ジークはレイナダの雷に打たれていてもおかしくない。だが、そんな様子はなかった。
何かがおかしい。歴史を重んじるジークが、雷の契約について知らないはずがないのだ。
伯爵はすでに、騎士団長との話に戻っていた。レンドルへの興味は、もう失われたらしい。レンドルが言葉に詰まったことで、勝敗はついたと踏んだのかもしれない。
この男は、レンドルに真実を語る気などない。ただ、自分に都合のいいように話をすり替え続けているだけだ。
考えろ。契約の中身を尋ねたのに、返ってきたのは「保護区への協力」という言葉だけだった。具体的に、何をする契約なのか。なぜジークが協力を止めれば、エルフの森とラクロアンの交渉そのものが止まるのか。
このままでは、知識と知力と、言葉の巧みさに押し切られてしまう。
エルフの森とラクロアンの和平は、国家同士の問題のはずだ。ジークという一人の女性が、そこにどう関わるというのか。そんな重要な人物を、なぜこの戦に同行させた。
伯爵の言葉を追うほど、疑問だけが積み上がっていく。これが、悪役の戦い方らしい。
ジークの魔法が強力なのは事実だ。だが、それが保護区の存続と、どう結びつくのかがわからない。和平交渉に臨むだけなら、ラクロアンがこのまま保護区を維持していれば、それで済む話のはずだ。
燭台の炎が風に煽られ、石壁の影が揺れた。扉を失った石壁の隙間から、夜風が忍び込んでくる。
その揺らめきに目をやったとき、女商人ペルギアの姿が視界に入った。
彼女の横顔が、じっと伯爵に向けられていた。蛇が獲物を狙うような目で、悪役を見つめていた。




