第40話 ルベリア王国遠征 ―― 死線の向こうに
黄金の狼が、真っすぐに襲い掛かってくる。獰猛な突進が空気を裂いて眼前に迫ってきた。
――死線。
その直線上、レンドルの背後にはサナロアがいた。満身創痍で意識を濁らせた彼女に、回避の術などない。黄金騎士は、背後の弱者ごと肉塊に変える気だった。退路はとうに潰されていた。
レンドルは、一気に魔力を高めた。短い時間の中で、この攻撃を防ぎ、彼女を守らなければならない。
剣で受け流しても、この巨体の突進そのものに吹き飛ばされる。剣を突き立てたとしても、魔力防御を貫けるかは分からない。──ならば、大槍を躱し、突進そのものを止める一撃を打ち込むしかない。そのためには、一瞬でも、あの目を逸らさせる必要があった。
迫りくる大男の踏み込む足を、鮮明に視認できるほど、世界の景色と石畳を踏まれる音が、徐々に遅くなってくる。
レンドルは長剣を両手で引き絞り、正面の兜めがけて渾身の力で投擲した。
風を切り裂き、激しく回転しながら迫る鋼の刃。だが、死を纏った大男の歩みは止まらない。エリクは寸前で首をわずかに傾げる。ヘルムに当たり金属音を奏でながら、投げつけた長剣が弾かれた。
その躱し方を見て、確信する。──魔力防御は薄い。意識のすべてが、大槍の突進にだけ向けられている。
レンドルの眼には、黄金騎士の姿と、弾かれて上空へ軌道を変えた長剣が、ゆっくりと映っていた。
突撃の構えは微塵も揺るがない。突き出された大槍の穂先は、寸分違わずレンドルの心臓を凝視している。まともに喰らえば、鎧に大穴が開き肉も骨も消し飛び、宣言通り無残に串刺しにされるだろう。
戦場を満たす冷たい沈黙、肌を刺すような魔力の奔流が、一瞬の停滞を永遠のように引き延ばす。
――ここで死ねるか。いや、死なせるわけにはいかない――!
守るべきもののために、レンドルは己の恐怖を力へと変える。眼前に迫る穂先。死が肉薄したその瞬間、左拳を顎へと引き絞った。右足を体の後ろ、石畳に滑らせて半身の体勢を取った。網膜を灼く金色の残光。レンドルの胸当てと槍の擦れ合う金属音が、鼓膜を激しく震わせる。大槍の軌道を鎧に滑らせて、心臓を辛うじて外す。
同時に、全神経、全存在を左腕へと注ぎ込んだ。
魔力が体内で狂おしく逆流し、拳の肉を、骨を、鋼鉄の硬度へと変質させていく。
サナロアの命を背負った、祈りにも似た一撃。
――ゴグシュッ!
生々しい鈍音が響いた。肉が潰れる柔らかな感触と、骨の砕ける無機質な硬質感が、拳を通じて骨髄へと伝わる。
レンドルの突き出した左拳は、文字通り《つっかえ棒》となって大男の突進を完全に阻んだ。凄まじい推進力が行き場を失い、エリクの巨体が頭部から後方へと吹き飛び、空中で歪に一回転する。
衝撃の余波が、レンドルの左腕から全身の骨を軋ませ、内臓を激しく揺さぶる。激痛。しかし、それは己が生を繋ぎ止めた証でもあった。
うつぶせのまま、石畳の上に大男が崩れ落ちた。主を失った大槍が手放され、虚しく飛び、サナロアたちの足元の石畳へと深く突き刺さった。
冷え切った戦場に、レンドルの荒い呼吸だけが響く。
前方からは、エリクの突進が運んできた風に乗って、鉄錆混じりの血の匂いが押し寄せてくる。
レンドルの腕にこれまでに経験したことのないような激痛と鈍痛が走った。
砕けていた。拳も腕も。だが苦痛に顔をゆがめている時間はなかった。宙に舞った長剣が地面に落ちて来る先へ向かって駆けだした。
世界はまだ、レンドルに時間を与えている。
回転して落ちて来る長剣を、右手で掴むと、すぐさま反転した。
起き上がろうとする黄金騎士に向かって、今度はレンドルが突撃をした。
徐々に世界はレンドルを孤独から解放する。音も光ももとに戻る。
レンドルは突きを繰り出すと黄金騎士は、両手で石畳を押し、転がりながら躱した。
だが、レンドルの追撃はそこで止まった。一瞬、意識が体から離れようとした。
それを救ったのは、砕けた左腕の痛みだった。この場で意識を失うなど、狼の一撃を防いだ代償となった左手が、それを許さなかった。
素早く大男は起き上がった。こちらを睨み付けてくるが、顔面がひしゃげている。エリクの口から大量の血が流れ、石畳の砂と混じり濁った。
そこには、本来あるはずの歯がまったくなかった。
レンドルは右手に持った剣を引き、ゆっくりと大男に歩み寄った。
「俺が剣を手放して、笑っていたな」
あの一瞬、確かにエリクの口角は上がっていた。間抜けな獲物を見る、侮蔑の目だった。
「だが、その一瞬にはもう、拳は出ていたんだよ」
血と砂に汚れたエリクの顔を、レンドルは見下ろす。歪んだ顔の真ん中に、本来あるべきものがない。
「歯が無くなって色男になった」
レンドルは右手に持った剣を大男に向けて言った。
「間抜けヅラだ」
黄金騎士の全身から、まばゆい銀光が弾かれるように放たれた。
「コ゛ロス゛!」




