第36話 ルベリア王国遠征 ―― 泣き虫の副官
鎮魂の風を掴んだ手を離すと、男はどさりと崩れ落ちた。
レンドルも魔力を相当使ったせいか、全身に疲労感が漂っていた。
剣術訓練とは違い、筋肉や関節の痛みや疲労ではなかった。
身体が思うように動かせない。意識がふわりと肉体から離れようとする、言葉にするとそんな感覚だった。
もう少し長く戦っていたら、膝を折っていたかもしれない。
短期戦だったから何とかなったのだ。長時間は不可能だと確信した。
銀狼相手に、今のような戦い方は出来ない。そうなった瞬間に命はない。
もっと、魔力の使い方を考える必要があった。
少し離れたところでは、戦いの声が続いている。しかし、要塞に入った時よりも小さい。
戦闘は段々と終息に傾いていた。
そして今、フェザインを圧倒したレンドルの周囲は、静かに金属がこすられる音しかなかった。
ルベリア兵に向かって、レンドルは大声を上げた。
「戦いを挑む戦士はいるか!」
沈黙が広がった。
だれも、名乗りを上げる者は、いなかった。
レンドルが一歩進む。それに合わせて、ルベリアの兵士たちが後退する。
「お、おい、下がれ」
「巨人族を倒したって……」
ルベリア兵が下がろうとしたが、背後にはすでに味方が詰まっており、彼らにはもう大きく逃げる空間など残されていなかった
さらに、もう一歩進む。それに合わせて、味方の兵士たちも一斉に踏み出した。
レンドルの歩みに合わせて、足音が揃っていく。大きな波となって続く。
圧倒的な気迫に気圧されたルベリア兵たちは、レンドルを避けるように、逃げるようにして左右へと分かれていく。
おのずとそれが進む道を作っていく。中枢の建物への道が出来ていくようだった。
レンドルは、太陽の光を受けて銀光を放つ長剣を、進行方向に指し示した。
「いくぞおおぉぉ!!」
その声に呼応してサンガードの兵士たちが叫びながら、突撃していく。
あっという間に、皇国兵がルベリア兵を飲み込んでいった。
◆
「レンドル!」
掛け声とともにサナロアが近づいてきた。
蒼い髪を揺らす副官が、ベックの状況を伝えてきた。
「後方に下がらせた。治癒を受けられるはずだ」
レンドルが頷くと、サナロアがじっと見つめてくる。
前髪は眉毛の上に切り揃えられていて、はっきりと彼女の眼が見える。
その眼は少し潤んでいて、それでいて強い光を宿していた。
「いきなり賞金稼ぎの前に出るな馬鹿!」
レンドルは戸惑った。
彼女がこれほど本気で怒るとは、思っていなかった。
「殺されるかもしれなかったんだぞ」
「すまない。体が先に動いたんだ。それに、ベックを助けたかった」
サナロアの握られた両手が、レンドルの胸を打った。
「巨人族を倒した。城壁通路も奪った」
彼女の眼の奥に、何かが揺れていた。
「もう十分じゃないか」
姉を思う、あの優しい眼に近い気がした。
レンドルは、それが何か分からないまま、ただ苦笑いをするしかなかった。
「死んだら、お前を恨むなんて出来ないんだ……」
その潤んだ瞳が、レンドルを真っ直ぐに射抜いていた。
「もう一人になんか、なりたくないんだぞ……」
その隠しきれない恐怖に触れてしまい、レンドルはどう言葉を返していいか分からず、ただ胸の奥がざわつくのを感じていた。
「ごめんな……」
「謝るな……」
「未来の結婚相手を泣かせたら駄目だよ」
タタが首をかしげながら、ため息をついて、小さく笑った。
サナロアは、ぱっとレンドルの胸を押し離して一歩下がった。
頬が赤らんでいるのが、はっきりと見えた。
「タタ!」
いつもの鋭さのない、涙交じりの上ずった声だった。
灰兎族の男が軽口を叩くときは、頭の動きで示すのが癖なのかもしれない。
人族の感情の機微に敏いのは、観察力が優れているからなのだろうか。
イステアの言う通り、泣き虫だった。戦場でもそれは変わらない。
彼女の本当の姿だった。
城壁通路で、サナロアは最初から何もなかったと言っていた。
彼女の両親が死に、姉が居なくなったあと、ずっと一人で泣いていたのだろう。
だから、恨んでくれていいと言った。それで彼女の心が、少しでも埋まればいいと思っていた。
だが今、声を震わせて怒る彼女を見て、レンドルは気づいた。
サナロアの空白に置かれたのは――恨みという言葉ではなく、レンドル自身だったのだと。
それなのに、彼女を置いて賞金稼ぎに向かっていってしまった。
レンドルがいなくなれば、彼女はまた、あの空白に戻ってしまう。
母を失ったあの日、レンドル自身が立っていた場所に。




