第34話 ルベリア王国遠征 ―― 砕いた前歯と飛んだ右拳
神父の顔に短剣が到達する直前に、見事にそれを躱したが、ベックの右拳はフェザインの顔を打ち抜いた。
吹き飛んだ法衣の男はうつぶせに倒れた。
「おっと、良い手応えだ。色男になったんじゃないか」
サンガードの兵士たちから歓声が上がる。
「不意打ちすぎるだろ」
レンドルの拳は強く握られていた。
まったく反応できなかった。会話の途中、指を差すふりをしたかと思った瞬間、短剣が正確に飛んでいた。
それでいて、音もなくベックは間合いを詰めていた。
――これが喧嘩師ベック。
「あんなの避けられない。不意打ちだ」
サナロアも感嘆の声色を上げるが、その言葉どおり騎士とは思えぬ所業だった。
ベックの右手からは、血が滴り落ちている。
「俺の体に穴を開けといて、無事で済むわけないだろ。酒が抜けちまうぜ」
ベックが無造作に距離を詰める。
震えながら起き上がろうとする男の法衣には、砂の汚れが付いていた。
「ひゅどいことをすりゅな」
フェザインの顔からは大量の血が滴り落ちている。前歯はなかった。下の歯もだ。
顎も砕けているかもしれない。それほどの強打だった。
「俺の流儀だからな。帰らせてやるよ。そよ風の神父さんよ」
フェザインが立ち上がると、全身に銀色の魔力が張られる。
身体強化魔法の滑らかさに驚いた。
「お、やる気だな」
「ふいうちゅとはひきょうだ」
「最初にやってきたのはお前だ。間抜けが――」
細剣を構えるフェザインの震えが止まった。
ベックが距離を詰めようと一歩踏み出した瞬間だった。
フェザインの体が構えたまま、滑るように前に加速した。
その速さは、レンドルの目には全く追えないほどの速度だった。
――ドヴァンッ!
音が後から聞こえたように思えた。空気がはじけ飛ぶように肌を打った。
ベックを突いたフェザインはすぐさま後退する。その速度も尋常じゃなかった。
レンドルがベックを見ると、右の頬が口から裂けていた。
口の中、喉を狙った突きを辛うじて躱したようだった。
そのままでいたら、突き立てた剣先が脊椎を砕いていた。
「オ゛マ゛エ゛!」
ベックの白い歯は鮮血に染まっている。
「そのかりゅくち、とじさせてやりょう」
今度は、ルベリア側から歓声があがる。二人の戦場は大盛り上がりの体を見せた。
フェザインの連続した突きが、ベックを削る。
不規則なステップで躱していたが、徐々に上がる突きの速度を避けられなくなってきていた。
ベックの攻撃はことごとく空を切る。ベックの繰り出す拳より、後退するフェザインの方が早い。
最初の不意打ち以外、技量の差が如実に現れている。フェザインの剣術の巧みさもさることながら、出入りの速度が人ならざるものだった。
「あれね、風魔法なんだよ」
タタがフェザインの速度の秘密を惜しげもなく口にした。
「僕ね、銀狼討伐の依頼を持ちかけたことがあるんだけど、高くてね」
タタから見ても、フェザインの強さは認められるほどだった。
「風魔法で体を押してる?」
「それもあるけど、自分の目の前の空間を一瞬薄くしているんだよ」
「出入りの速さはそういうことか」
サナロアが納得だと声を上げる。攻撃の起こりがまったくないまま、剣を構えた状態で進むなんてありえない。
ベックの体に薄く魔力が張られる。その魔力操作は悪くなかったが、フェザインを見たあとだと大人と子供の程の差があった。
フェザインが突きの構えをとったまま、ベックの周りを円を描くように滑っていく。
「気持ち゛悪い動きを゛しやがって!」
急激に直線に動きを変えたその突きに合わせてベックの右拳がフェザインの顔を捕らえた。
そう思った瞬間、フェザインの体が一瞬で後退する。空を切る右拳をフェザインが振り切った。
繋がりを失った拳が、前方に跳んでいく。
「ぐあ゛あああ゛あああぁぁぁあ゛あ゛あ゛!」
右手首から先を失ったベックが叫び、膝をついた。
ルベリアの兵士たちから、殺せとの大合唱が始まった。
血まみれになった黒い法衣の男が、恍惚の表情でベックの喉を突いた。




