第19話 騎士叙任 ―― 記憶の中の青き月
兵舎に戻り、しばらくすると騎士叙任の間で待つように通達があった。
重い足を引きずるようにして、レンドルはそこにいる。
今日は、あまりにも多くのことがあった。
長椅子に腰を下ろした途端、体から力が抜けた。
謁見の間でのことを思い出す。
近衛騎士の剣を弾き折った。
皇妃フィリネアリの底知れない恐ろしさを知った。
震えていた妹の顔が、まだ瞼の裏に貼り付いている。
怒りで我を忘れそうになった。今もそうだ。
もしかしたら、今この瞬間も命を狙われているのではないか。
廊下の先から夕暮れの光が差し込んでいた。石畳の冷たさが、靴底を通して伝わってくる。
目を閉じると、そのまま深い眠りに落ちた。
◆
「レンドル、青き月よ。とてもきれいよ」
母の声だ。
また、この夢だ。
母はいつも穏やかな声で語りかけてくれた。
話すとき、必ずレンドルの目を見ていた。
赤い髪に、紅い瞳。レンドルと同じ色だった。
――いつも、ここからだ。
気づくと、夜の森の中にいた。
たくさんのテントが見える。
冒険者風の男たちが、酒を飲み歌を歌っている。
焚き火の残り香と湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
枝葉の隙間から、淡い青い光が差し込んでいた。
「木が邪魔で、よく見えないな」
「ねえ、母さん。さっきの歌……いつも歌ってくれるよね」
「星巡りの詩ね」
「昔のエルフの歌なんだよね。どういう意味なの?」
母は、少しだけ微笑んだ。
頬をなでる夜風が心地よく、その風が赤髪を揺らすたびに、長い耳が覗いた。
「遠く古い、青き月のお話よ。月から生まれて、また月へ帰る。命が巡る、そういうおはなし」
しばらく黙って、月を見ていた。
枝葉の隙間から覗く光だけでは、物足りなかった。
もっと、あの青い月をはっきり見たい。
「……青き月、見たい。あっちに行ってくる」
「レンドル――! だめ!」
振り返らずに駆け出した。
少し広い場所があることを、なぜか覚えていた。
「待って! レンドル!」
母が後を追ってくる声が遠ざかる。
茂みを抜けると、目の前にもう一つの青い月が揺らめいていた。
小さな池が、夜の先に開けていた。
その瞬間だった。
青い月光の下、巨大な影がすでにそこにいた。
闇と同じ色の体毛なのに、輪郭だけがぼんやりと銀色に揺らいでいる。
神聖で、同時に絶対的な死を感じさせた。
そこで立ち止まると、追いかけてきた母の声がした。
レンドルの横を赤い髪が通る。
母の頭上に巨大な火球が突如現れたかと思うと、黒い影に飛んでいった。
黒い影は、銀色に輝きを放った。火球はそのまま身体に当たり、爆炎となって巨躯を包んだ。
「銀狼っ……!」
それでも、銀狼は無事だった。
炎に包まれたまま、銀色に輝く体が現れる。
次の瞬間、閃光と共に鋭い衝撃がエルザの身体を貫いた。
「く……っ!」
振り返ると、左脇腹からおびただしい血が流れ落ちるのが見える。
それでも母はレンドルを庇い、魔法の炎の壁を展開した。
だが銀狼は、のそり、のそりと、炎を突き破って進んでくる。
その口からは、白い吐息が漏れる。
「……この炎を越えてくるなんて」
――これは、ただの記憶じゃない。
「レンドル、剣を取りなさい!」
光景は鮮明で、音も匂いも、あの時のままだ。
――動かなかった。手が、体が。
剣の柄を握っても、腕が震えて力が入らない。
異様に冷たい空気が体にまとわりついていた。
膝が崩れて、そのままへたり込んだ。
「か、母さん……抜けないんだ……」
『エルフの女……。大した魔法だ』
低く、濁った声が腹に響く。
銀狼は知性を持つ魔物だと、母が教えてくれていた。
「……仕方ないわ」
炎の柱がいくつも立ち上がり、銀狼を囲んだ。
攻撃ではなく、危険を知らせる合図だった。
「仲間がすぐに来る、下がりなさい――銀狼」
『その傷では長くない。先に、子供からだ』
「……っ! させない!」
子供へ飛びかかると見せかけた刹那、銀狼がエルザの横を一瞬で駆け抜けた。
右肩に生えた刃のような突起が閃光となり、エルザをさらに深く切り裂いた。
その時だった。
無数の弓矢と魔法の槍が、銀狼めがけて飛来した。
騒ぎに気づいた魔法使いや戦士たちが、戦線に加わったのだ。
それを躱すと、銀狼は距離を取った。
空が暗くなっていく。青き月が雲に隠れた。
「エルザッ!」
誰かが、エルザの名を叫んだ。父の声に似ている。
「か、母さん……血が……」
「いいの、レンドル……おいで」
母は血を流しながら、レンドルを見ていた。
長い耳が垂れた。静かに夜風に赤い髪が揺れている。
その場で母は座り込んだ。
レンドルは母に近づき、体を支えようとした。
「長くは……もたないわね」
息をするたび、胸が小さく上下する。
それでも、その目はレンドルから離れなかった。
また、微笑んだ。
「思い描いていた未来も……覚えてきたことも……全部、見えるの」
母がレンドルに手を伸ばした。血に濡れた指先が、震えている。
レンドルの頬に、母の手が触れる。
「泣かないで、レンドル」
「……僕が、月を見たいって言ったから」
レンドルの目から、涙が溢れる。
「最初から決まっていたのよ」
母の声は、穏やかなままだった。揺らがなかった。
「でも、あなたが生きていたら――その先は、変えられる」
母は最後まで目を逸らさなかった。
「生きるには……戦うしかないの。……立って、レンドル。あなたの未来を……私は……」
声が、細くなる。
そこで、言葉が途切れた。
◆
ゆっくりと目を開けた。
涙が、冷たく頬を伝っていた。
廊下は薄暗く、遠くで誰かの足音が消えていく。
夕暮れの光は、もう届いていなかった。
右手を、静かに握りしめた。
魔力が、指の奥まで満ちている。
あの夜、恐怖で抜けなかった剣が、今なら抜ける。
ただ、守れなかったものがあった。それだけは、ずっと変わらない。
加護を得た。
銀狼を殺す方法は、必ずある。
――母さん、もう泣かないよ。
涙を袖で拭い、レンドルは長椅子から立ち上がった。
前を向いた。




