第16話 謁見の間 ―― 皇妃フィリネアリ
謁見の間は、広かった。
高い天井から下がる燭台の明かりが、白い石柱を揺らめかせている。
床は磨き上げられた大理石で、踏み込むたびに靴音が響く。
靴の音以外に聴こえるのは、両脇に並んだ近衛騎士の鎧のすれる音だった。
レンドルは腰に手を当てたが、そこにはいつも携えているロングソードはない。
帯剣は許されず、ここに来るまでに預けていた。
レンドルの前には、騎士団長がゆっくりと王座に向かって進んでいた。
そして皇妃の前で止まると、レンドルは、その一歩後ろで立ち止まった。
両脇に並んだ、近衛騎士たちの視線が、一斉にレンドルへと向いた。
値踏みするような、それでいて明確な敵意を含んだ目だ。
エルフの混ざりもの、そんな言葉が口の端から漏れるのが聞こえた。
耳がいいというのも、いいことばかりじゃない。
自分たち近衛騎士に加わるかもしれない。
選ばれた者たちからしたら、気に入らないということなのだろうか。
相手側に立って考えることなどできやしない。だから、彼らもそうだ。
レンドルの苦しみや葛藤を理解できるものなど、この場に居るはずがなかった。
鼓動が静かに時を刻んでいる。
命を狙われているかもしれないと聞かされ、心が落ち着かなかった。
ここ数刻で起きたことの全てを、まだ整理しきれていなかった。
――俺は望んでここにきたわけじゃない。
そう声に出したかったが、どうせ聞く者はいない。
面倒なことに巻き込まれてしまった。
ただ、加護を求めただけなのに、何か歯車が狂ってしまった。
「レンドル一人で来るようにと、言ったはずよ」
皇妃の声は落ち着いていた。静かな圧があった。
騎士団長の太く力強い声よりも、すっと耳の奥に入ってくる。
不思議な力があるように思えた。
玉座に腰を下ろす女は、白く薄いベールで顔の大半を隠していた。
金の装飾がされた深紅の衣をまとい、細い指先だけが膝の上で静かに組まれている。
ベールの下から覗く口元だけで、その美しさの片鱗が分かった。
広間に響く声は、楽器の音色を思わせるほど透き通っていた。
――この人が皇妃フィリネアリ。
レンドルの命を狙う皇妃の前に、丸腰で相対しなければならない。
この場に、命を救ってくれる都合の良い差し伸べられる手などない。
近衛騎士が有無を言わさず、切りかかってきたらどうしたらよいのだろう。
「皇妃様に、そのような権限はありません。私の直属の部下です」
騎士団長は静かに、しかし明確に返す。
「近衛騎士の任命権は、私自身にあります。あなたの部下でもね」
「私の甥は――それで命を流しましたからな。諦めていただきたい」
その言葉は衝撃だった。騎士団長室で聞いた話は身内の話だった。
「そうね、残念だったと思うわ。私も心を痛めたもの」
その発せられた声は、何か心に直接語り掛けるような感覚があった。
それが不気味に思えて仕方がなかった。
「よくもそんな白々しいことを……」
レンドルの耳には確かに聞こえた騎士団長の言葉。皇妃に届くほどの呟きではなかった。
グリフォートは短く間を置いた。
「レンドルは今日、民間人を脅し、剣を抜いた。血も見えているゆえ、騎士法では懲罰兵です」
「その民間人は、死んだの?」
「いいえ」
「その程度で、懲罰兵?」
「はい。最前線で、名誉の戦いを剣に捧げます。しかし、懲罰を受けた騎士は近衛騎士にはなれません。清廉さが求められるゆえ」
「手の込んだことをするのね」
「サンブラント皇帝陛下の定めた皇帝法です。近衛騎士は諦めていただきます」
――話が長い。
レンドルは、最初吐き気がした。自分の話をしているのに、自分の声が一切入らない。
だが、しばらくするうちに、その感覚は薄れていった。
今は、ただどうでもいい気がしてきた。
「グリフォートは融通が利かないわね」
「公爵を付けていただきませんと。無作法を超えて物を知らぬようでは困りますな」
「ならばお前は、上下関係を知らないということね」
「これは失礼を。さて、話は以上でよろしいですな」
一瞬の沈黙。玉座の間に、燭台の炎がゆらぐ。どこからか入った風の音だけが満ちた。
「では、ブレイズ家に命令するわ。あなたの権限は及ばない」
皇妃の声が、少しだけ低くなった。
「エルザの件で、ファレンは私に貸しがあります。レンドルを今すぐ退役させ、近衛騎士に任命しなおすの」
グリフォートが短く息を吐いた。
「それほどまでに、レンドルを求める理由をお聞かせください」
「皇帝陛下は暗殺された。私も命を狙われているかもしれないでしょう? 加護もちの騎士がそばに居ると安心すると思うの」
――どの口が言っている。
レンドルは、騎士団長の気持ちが分かった気がした。
この女は、人を逆なでするのが得意なのだろうか。
だが、剣を交えるわけでもない。血が流れるわけでもない。ただの言葉の応酬だ。
そう気づいたとき、不思議なほど気持ちが静かになった。
この無駄な時間をどうしようかと、本気で考えた。
レンドルは静かに、体の中に意識を向けた。
加護を得てから、魔力が流れるのを感じ取れるようになっていた。
そして、証紋官ギルドで自分の魔力を思った通りに動かせた。
そうだ、ブルード教官の体に銀色が走るのを見たあの日から、ずっと気になっていた。
もし、命が狙われているなら、あの防御力は、必ず必要になるはずだ。
意識を内側に向ける。
体の一部だけじゃない。全てに意識を向ける。そうやって細い糸を手繰り寄せるような感覚。
魔力が、ゆっくりと腕の先まで満ちてくる。
――動く、これだ!
体に薄く浮かび上がる魔力、これをブルード教官はやっていた。
これを、より強く流すことで強力な攻撃も防げる。
あそこで、ずっと睨んでくる近衛騎士の剣も――弾く。
「懲罰兵が先です。勤めを果たすまで退役は出来ません」
グリフォートの声が続いている。それを遮るように声がレンドルに届いた。
「ねえ」
ベールで隠されているが、皇妃の視線が初めてレンドルへ向いたのが分かった。
「レンドルは、最前線に行きたいの?」
だが、レンドルはすぐに答えなかった。
睨んでくる近衛騎士から殺意を感じていた。




