第117話 ルベリアの罠 15 ―― 仮面
「貴様、ネオネスのことを知っているな!」
ブルードは怒りの形相だった。
とても表情を繕う仮面の男とは思えなかった。
本気の怒りだ。怖いくらいだ。
「知らないわ、離して!」
ブルードはジークの右腕をひねり上げ、そのまま持ち上げた。
苦痛に歪む彼女の顔を見ると、そうとうな痛みだろう。
「やめろ! ウィンダス侯爵!」
声を上げたが、彼女のところに行こうにも足が動かない。
「レンドルか、銀狼相手に戦えるとは、さすがファレンの息子だ。そして――サンルード様の《英雄の加護》は本物だ」
ブルードの静かだが、底冷えするような声が響いた。
「だが、黙っていろ。お前には関係がないことだ」
黙っていられるはずがなかった。だが、どうにもならない。
怒りだけが、胸の内を満たしていく。
それに呼応するように、また昏い魔力が身体からにじみ出していた。
「落ち着けレンドル。ベックがジュカを連れて来る。だから、もう少しだけ我慢しろ」
サナロアは、レンドルがジークのもとへ行けない歯がゆさをわかっているようだった。
「よかった、ジュカは無事だったんだな」
「身を隠していたからな」
その言葉を聞いてレンドルは胸をなでおろした。
「レンドルがあのエルフの少女のことを気にかけているのは、わかっているぞ」
「え、ああ……」
「いきなり浮気とはな、先が思いやられるな」
レンドルは絶句した。サナロアはため息交じりに呟くと、口角を上げた。
「冗談だ。それにしても、可愛らしい子だ。サンガードは重婚も大丈夫だぞ」
サナロアの悪戯な笑顔が妙に怖い。
「私は別に構わない。レンドルが、私も愛してくれると信じているから」
「いや、なんで」
「違うのか?」
「愛も信頼も全部ある、それは大丈夫だ。心配しなくていい。それに、その前に、ジークとは何もない」
「心配はしていないが、ジュカとはあっただろ」
何も言えなかった。
「少しは冷静になったか」
レンドルは、サナロアの意図に気がついた。
あのままの怒りが身体からあふれ出していれば、どうなっていただろう。
自分はきっと、動かない足を引きずってでも、ブルードに向かって行ったかもしれない。
父なら、そんなことにならない。
いかに自分が未熟かを、思い知らされた。
ブルードが、ジークの腕を振り回し、地面に投げ伏せた。
レンドルは歯を食いしばる。
怒りは消えていない。
だが、先ほどのように、その怒りに呑まれてはいなかった。
今の自分では、何もできない。
ただ、それが悔しかった。
それにしても、あの男は、なぜジークに乱暴な振る舞いをするのか。
エルフの少女に対して、どうして、あのようなことができるのか。
ベギラダの神殿にいたネオネスは、ジークの父親だ。
ブルードはネオネスのことを知っていた。
二人の間に何かあったということか。
そこに、ベックと護衛騎士に守られながら、ジュカが駆けつけてきた。
息を切らしたジュカが、レンドルを見ると心配そうな顔をしていた。
「ジュカ、レンドルの足がひどい」
サナロアの声に、ジュカは黙って頷いた。
雨と泥でぬかるんだ地面に膝を着き、治癒を始める。
彼女の素肌が泥まみれになるが、まったく気に留めるようなことはなかった。
これで何度目だろう。彼女に助けてもらうのは。
薄紅色の髪から、雨がしたたり落ちる。
ほんの数秒だ。まったく痛みもない。足が動く。
「ジュカ、助かったよ」
「魔獣と戦っていたのを見ました。本当に、すごかった。あなたを選んで、あたしは良かった」
そう言って、彼女は微笑んだ。
レンドルは「ありがとう」と告げて、ブルードに向かう。
「ブルード!」
今度は、あえて呼び捨てにした。
身分が違うのだ。本来であれば、切り殺されてもおかしくない。
だが、もうレンドルは目の前の男に容赦するつもりはなかった。
誰も見ていないところで、切り殺そうと考えていた。
しかし、もはやそんな話ではなかった。
調印式の場で、こちらに向かって剣を向けてきた。
銀狼の乱入で混乱が生じ、結果的に刃が届かなかっただけだ。
間違いなく、ブルードは自分の命を狙っていた。
歩みを止めない。目に魔力を集中する。
斬られようが突かれようが、この眼で捉えられないものなどない。そう確信していた。
レンドルは剣を下段に構えながら、ブルードに近づいていく。
ブルードは地面に伏せたジークから視線を外し、ゆっくりと剣を抜いた。
サナロアが、すぐにジークの側へ駆け寄る。
「ジークは、要塞の門を氷で塞いだ功労者だ。敬意を払うべきだ。こんな手荒な真似をするなんて、どうかしている」
サナロアはブルードを咎めた。
言っていることは至極当然のことだが、ブルードは唾を吐いた。
そこに、ノックス大隊長が、声を上げて駆け寄ってくる。
「ウィンダス侯爵閣下! ご無事でしたか。負傷者が多いですが、なんとか持ちこたえられそうです」
「そうか。では、レンドルを拘束しろ。反逆罪だ」
「は?」
「聞こえなかったのか? ラクロアンの盟主を殺そうとしたのだ。当然だ」
「それは、しかし――」
「貴様は我が領の騎士だぞ。俺の命令に逆らう気か」
「お言葉ですが、レンドルがいなければ、この戦争には勝てませんでした。それに反逆とは」
「同盟は皇国が決定したことだ。グリフォートが遠征軍の総司令官であっても、それを覆す権限などない。だから、俺は止めようとした」
「ならば、あの場で反対すべきだった。レンドルは命令に従うしかない」
ノックスの声はまだ硬かったが、震えてはいなかった。
雨に打たれながらも、ブルードから目を逸らしていなかった。
「ノックスのやつ、包帯を外した覚悟は本物だな」
ベックが白い歯を見せながら笑った。
レンドルは、大隊長に頼もしささえ感じていた。
雨が強まってきた。
雨が目に入った瞬間、レンドルは瞬きをした。
ノックスの胸に、ブルードの剣が突き刺さっていた。




