第118話 ルベリアの罠 16 ―― 狂人
ノックスの身体が、ぐらりと揺れた。
本当に一瞬の出来事だった。ノックスが油断していたわけでもない。
「自分の飼い犬に噛まれるとはな」
剣が振るわれたことにさえ、レンドルは気づけなかった。魔力の起こりも、剣筋も、まるで見えなかった。
ノックスは何かを掴もうとするように手を伸ばし、そのまま両膝を突いた。
この男――ブルードは、加護持ちで、サンガード皇国の建国の立役者の一人。
いくども戦いに身を置いてきた、歴戦の強者。
忘れていたわけじゃない。
ただ、自分の加護の方が強いと思っていた。信じすぎていた。
ブルードは、ノックスの身体から剣を引き抜いた。その切っ先が、返す刀でレンドルへと奔る。
レンドルは魔力を集中する。世界が、徐々に遅くなる。
ブルードの剣に付いた血が振り払われ、飛沫がレンドルの顔に向かって飛んでくる。
同時にブルードが踏み込んできた。
刃に走る、見覚えのある刻印。
レンドルの魔力を容易く斬り裂いた、魔法の剣だ。
あれはランパルザ――皇国の狼と名乗っていた男が持っていたものだ。
なぜ、この男が持っている。答えを探す間もなく、切っ先が首元に迫っていた。
この剣を躱せばどうなる。
後ろにはジュカたちがいる。護衛騎士がいるとはいえ、危険すぎる。
だが、剣を受ければどうなる。
魔力を纏わない長剣ごと、斬り裂かれるかもしれない。
レンドルは下段に構えていた剣を振り上げながら、左足を後ろへ引いた。
身を反らして突きを躱し、剣の腹で迫る刃を外へ受け流す。
受け流した勢いのまま、剣を左手一本で握る。右手を柄から離し、肘をブルードの顔めがけて叩き込んだ。
ブルードの首が後ろに反り返る。だが、すぐにバックステップして距離を取った。
「やはり、見えているな。――本物の竜眼か」
ブルードが口から血を流している。肘打ちは当たった。
竜眼のことは気になるが、今はそれどころじゃない。
レンドルは間髪を入れず、腰の短剣を投げつけた。
今度はそれに合わせて踏み込んだ。
そして、昏く紅い魔力を剣に流し、振り下ろした。
ブルードは籠手で短剣を弾く。
レンドルは、ブルードが下がるか、少なくとも避けると思っていた。
そして、その隙にジュカがノックスへ駆け寄る時間を作るつもりだった。
だが、レンドルの予想に反して、ブルードはそこから踏み込む。
剣同士がぶつかり、紅と銀の火花が散った。
レンドルは距離を取る。
「その剣に纏わせた紅い力――銀狼を斬ったものだな。どうやら、ミスリルは斬れないようだな」
あの魔法の剣はミスリルでできているのか。
道理で斬れないはずだ。ミスリルは、この世で最も硬い金属とされている。
「千年王国と謳われたエルザリアの古代の剣だ。お前が殺した剣牙族が持っていた大剣とは、物が違う」
千年王国エルザリア。その名は、絵本で何度も目にした。
エルザリアだけが製錬できたとされる伝説の金属ミスリル。
ミスリルから作られた魔法の剣など、おとぎ話の中にしか出てこないと思っていた。
「……なぜ、俺を殺そうとした。狂人の血だからか」
レンドルは、絞り出すようにそう問いかけた。
ブルードは黙っている。
ブルードのすぐ脇で、膝をついていたノックスの身体が、力尽きたように前のめりに倒れた。水たまりの水が飛び散る。
レンドルが踏み出した時には、もう遅かった。
ブルードは足元に倒れたノックスの首元へ剣を突き立て、そのまま地面まで貫いた。
レンドルの身体が一瞬強張る。
ノックスは、もう動かなかった。
ブルードは剣を引き抜くと、感情のうかがえない声で、ぽつりと語り始めた。
「ほんの少し前まで、人族もエルフ族も、手を取り合い魔獣と戦っていた」
ブルードの声には、乾いた記憶をなぞるような、遠い響きだけがあった。
まるで、これまで被っていた仮面を、あえて外したようだった。その顔は、どこか悲しげに見えた。
「サンルード様は、エルフから世界樹の実を譲られたことがある。友好の証としてな。だが、その頃から、何かがおかしくなっていた」
ブルードの視線は、レンドルではなく、もっと遠い過去のどこかに向けられているようだった。
「俺には、結婚を誓ったエルフがいた。フィラドという、優しい女だった」
ほんの一瞬、その口元が緩んだように見えた。だがそれは、すぐに硬い無表情へと戻った。
「あるとき、エルフたちから、仲間が攫われたとの訴えがあった。その中にはフィラドもいるという」
雨音だけが、二人の間に落ちていく。
「調べていくと、フィラドたちがサンルード様のもとへ連れていかれたことがわかった」
剣を持たない手が、微かに震えていた。
「信じられなかった。だが、サンルード様に聞くと、あっさりと答えが返ってきた」
短い沈黙が落ちた。
「食べた、とな」
その狂った言葉の響きは、雨音の中でもはっきりと聞こえた。




