第111話 ルベリアの罠 9 ―― 碧眼
証紋官の呼びかけに応じ、サンガード皇国と、独立国家共同体ラクロアンの双方の代表者が、中央に置かれたテーブルへ移動した。
皇国側代表は、今回の遠征軍の総司令官であるサザンランド公爵――グリフォート騎士団長。
ラクロアン側代表は、ラクア・クアヴレカ・カーミオン。
そして、証紋契約のために、お互いの証紋官が控えている。
双方の護衛が立ち並ぶ。その数は、それぞれ十名。
公爵から見て、左翼にブルード・ウィンダス侯爵と、その領の上級騎士。
そして、右翼にサザンランド領騎士と、レンドル。
両翼に五名ずつが並ぶ。
ラクロアン側には、ラクアの護衛の騎士が並んでいる。
要塞の外で屍人たちと戦った騎士の顔が何人か見える。
だらりとした姿勢には、到底騎士とは思えない緩さがある。
だが、まったく油断はできない。彼らは全員が加護持ちで、刻印の施された魔法剣を携えている。
そして、レンドルの正面には、銀髪のエルフ、ジークが立っていた。
光のない目。あの美しい銀瞳が、虚ろにレンドルを見ていた。
なぜここにいるのかを考える余地はない。
この場にいる以上、ラクアの魔法で何かされているのは明白だ。
もし彼女が皇国に対して魔法の襲撃をかけるなら、一瞬で上級騎士たちも氷漬けになってしまうだろう。
剣を向けることなんてできるわけがない。全力で駆けて身体を押さえるしかない。
あのくすんだ眼を振り払うように、一度、目を閉じ、改めてラクア陣営全体を見渡した。
ラクアがレンドルを見て、一言声をかけてきた。
「同盟を組むんだ。そんな顔をするなよ、赤髪の英雄。また遊んでやる」
そう言って、乾いた笑い声をあげた。
レンドルは無言で、鞘に左手を置いた。
いつでもこの剣を抜く意思を見せた。受けて立つ、そういう態度だ。
ラクアの口元から、白い息が漏れている。
昼前だというのに、息が白くなるほど冷え込んでいるのは明らかにおかしい。
まばらに降る雨も、ひどく冷たく感じた。
そして、これも精霊の悪戯なのか。
空気が、重く感じられた。
「ふっ、冗談の通じないやつだな」
小さな四角いテーブルには、羊皮紙が置かれていた。
「では、最後に契約書を確認していただく。問題がなければ魔力紋をとります」
「すでに確認した。サンガード皇国はこの契約に従う。先にやらせてもらおう」
そう言って、グリフォート騎士団長は羊皮紙に手を置いた。
魔力が流れると、そこに魔力紋が浮かび上がるのが、視界の端に見える。
ラクアからは一瞬たりとも目を離していない。
十秒ほどたった後、証紋官が手をあげた。
「サンガード皇国側は終了です。ではラクロアン側代表、証紋を」
「――その前に、聞きたいことがある」
ラクアが言った。
「なんで、こんなに寒いんだ」
その瞬間、ラクア側の騎士たちが、一斉にこちらへ駆けながら剣を抜いた。
レンドルの視界の端では、左翼にいたブルードとウィンダス領の上級騎士たちも、すでに剣を抜いてこちらへ駆けていた。
その剣先は、公爵の騎士たち、そしてレンドルへ向けられている。
――ラクア側が先に攻撃を!
皇国側の上級騎士たちは、まだ剣を抜いていない。
何人かが鞘に手をかけたばかりだった。
合図より先に攻撃を受けることなど、微塵も想定していなかったのだ。
レンドルは魔力を一気に練り上げた。
突っ込んでくる騎士たちの動きが、徐々に遅くなる。
世界の中に、自分だけが取り残されたような感覚。
ブルードが来る。
レンドルは身体を左へ向けながら、剣に手を掛けた。
その瞬間――。
背中に、凄まじい魔力を感じた。
ぞっとするほど冷たい何かが、一気に背後から迫ってくる。
一本の氷槍が頬すれすれを抜けた。
冷気が肌を刺す。
考えるより早く、レンドルは身体を地面へ伏せた。
直後、無数の氷の槍が頭上を凄まじい勢いで通り過ぎた。
そして、その先にいたブルードたちへ襲いかかった。
「なッ――!」
無数の氷槍はブルードたちだけではなく、周囲の騎士たちまで巻き込んだ。
目の前で、騎士たちが次々と貫かれていく。
正面から突き刺さった氷槍が鎧を貫き、その背中から鋭い穂先を突き出した。
走っていた騎士たちは勢いを失い、次々と地面へ倒れていく。
レンドルは息を呑んだ。
――俺だけ、当たらなかった?
避けた、とは思えなかった。
頬すれすれを抜けた一本に、反射的に身体を伏せただけだ。
あと一瞬遅ければ、自分も同じように貫かれていた。
偶然としか思えなかった。
だが、考える暇はなかった。
頭上が、突然暗くなった。
巨大な何かが、レンドルの背後から飛び越えていく。
風圧が髪とマントを激しく叩いた。
次の瞬間――。
巨大な狼が、騎士団長とラクアの間に置かれていたテーブルへ降り立った。
轟音。
地面が揺れ、小さな四角いテーブルが一瞬で砕け散る。
羊皮紙が雨の中へ舞い上がった。
レンドルは伏せたまま、横目でその光景を見た。
剣牙族のガルルガが魔獣となった姿よりも、一回りも二回りも巨大な魔獣。
漆黒の体毛。
異様な巨躯。
レンドルはすぐに立ち上がった。
ふと、ジークへ視線を向ける。
ぼんやりと立つ彼女は、そのままだった。
この異常な事態でも、虚ろな瞳は変わらない。
氷の槍を放ったのは、ジークじゃない。
――こいつか。
この魔獣が、あの氷槍を。
先ほど背後から感じた、あの凍てつく魔力。
目の前の魔獣から、同じ冷気と魔力を感じる。
魔獣の顔が、ゆっくりとこちらを向く。
狼の身体が銀色に輝きだした。
レンドルの全身が強張った。
そして――。
その碧眼を捉えた瞬間、レンドルの全身が凍り付いた。
忘れるはずがない、あの日に見た――碧眼を。
〝よんだ よんだ おおかみ よんだ〟
レンドルの頭の中に、囁く声が響き渡った。




