第110話 ルベリアの罠 8 ―― 偽りの合図
騎士団長の天幕から、ブルード教官――ウィンダス侯爵が退室した。
軍務規定違反だが、この場は騎士団長に免じて許す。そう短く言い残して、足早に去っていった。
祝いの言葉などあるはずもなく、その態度だけでも、ブルードという男の輪郭が見えた。
騎士団長は、木製の椅子から立ち上がり、天幕の入り口に向かった。
「いやな天気が続くな……。レンドル、肝を冷やしたぞ」
レンドルは苦笑いをして、ごまかしたが、グリフォート騎士団長は笑っていた。
ブルードが確実に離れたことを確認している。
そして衛兵には、次は誰であろうと入れるなと命じていた。
騎士団長は、自分の椅子に戻り、大きくため息をついた。
「それで、サナロア。お前はレンドルから、どこまで話を聞いている」
「直接は何も聞いていません。ですが、レンドル隊長の言葉や表情から察するに、調印式は戦場になる……のでは」
「……その通りだ。さすがだな」
木製のカップに、従者が新たな葡萄酒を注ぐ。それを口に含み、騎士団長は語りだした。
「調印式の直前に、ラクアを討つタイミングをブルードへ伝える。魔力紋を採る時だ。もし魔力紋を採らず、署名だけに変更されたなら、その署名中を狙う。要は、利き手が使えん瞬間だ」
レンドルは、それが騎士団長の恐ろしいところだと思った。
ラクア暗殺のタイミングが、サナロアから――いや、直属の上級騎士たちからでさえ漏れるかもしれないと想定している。
騎士団長の従者さえも、信用していないのかもしれない。
だからこそ、本当に狙うタイミングとは違う情報を、あえて今この場で口にしている。
たとえレンドルまで、この偽のタイミングを本当だと思い込んでも、それはそれで構わないのだろう。
暗殺自体は、騎士団長直属の上級騎士たちだけで済む。
「騎士団長。ラクアの怪我の程度も気になりますが、それなら、ブルードも納得すると思います」
レンドルは、あえて本当の機会を口にせず、ラクアの怪我についてだけ問いかけた。
騎士団長がラクアの怪我の具合を尋ねた瞬間、それが襲撃の合図になる。
その取り決めが変わっていないことを確認するためだ。
「……そうだな。儂もそう思う。ラクアの怪我の具合によっては、利き手が負傷しているかもしれん」
そう言って、騎士団長はレンドルだけにわかるように、僅かに口角を上げた。
上級騎士たちは騎士団長の背後を固めている。
だから、その笑みには気づかなかったはずだ。
本当に狙う瞬間は変わっていない。
ブルードを騙すための算段だと確信した。
「暗殺の成否にかかわらず、皇弟デオルグ殿下が、王都へ兵を動かすことになる。下手に同盟を結べば、ラクロアンから援軍を引き入れる口実を、こちらから与えることになる。すでに連絡兵は、皇国へ向かわせた」
皇弟デオルグ。
サンブラント皇帝陛下の、父親違いの弟であり、有力な皇位継承者。
会ったことも見たこともないが、サンルードの血脈ではない。
相当腕の立つ人物だと聞いた。このサンガードの建国にあたり、周辺国との戦いで獅子奮迅の活躍をしたそうだ。
皇帝陛下を随分と慕っていたという逸話も、いくつも残っている。
兄を殺した皇妃たちを許すはずがない。
王都は火に包まれるのだろうか。
辺境に城を構えているが、その軍事力は、騎士団長のサザンランド公爵領に勝るとも劣らないらしい。
あえて、辺境に城を構えているのは、帝位に興味がないことを示しているとも言われている。
しかし、今となっては事情が違う。
鎧のすれる音が外から聞こえた。
続いて、誰かが衛兵と言葉を交わす声がする。
やがて、伝令兵が天幕に入り、敬礼した。
「騎士団長。調印式の準備ができました」
伝令兵が引き連れてきた冷たい空気が、遅れて頬をなでた。




