第101話 嵐の朝に 6 ―― 雷の衝撃よりも
「フィリネアリの耳が尖っていたこと、魔力紋のことも、少し気にかかっていてな。サイアスの妻に聞いた。閨で、な。拳を振り下ろせば、女は何でも話す。まだ瑞々しい女だった。……今頃どうしているものか。ふ、ふふ」
聞くに堪えられない。思わず拳を握った。
商人の妻もまた、この男に食い物にされていたのか。
サイアスという商人は、罪の重さに耐えかねて首を括ったのか。
それとも、この男によって、さらに追い詰められたのか。
この世界には、この痩せた男のような人族が、いくらでもいる。
サナロアの両親も、狂っていた。酷い大人がのさばっている。
ブルードもまた、狂っている。あるいは壊れざるを得なかったのか。
その中に自らも身を置かなければ、戦うことすらできない。
父はそれを知っていた。
サンルードの血を狂人の血と呼んでいた。
聖人は一体何をしたのだろう。誰に聞いたらわかるだろう。
人は、どこまで狂って、どこまで耐えられるものなのか。
父を殺したかもしれないブルードがそばにいて、耐えている自分もまた狂っているのだろうか。
突然、アーデンが哄笑した。
「くっ、はは、あーっはっはっは! 毎夜俺に抱かれた娼婦、今や皇妃だ! 盗賊エルフの混じりものがだ! 笑いが止まらんな! しかし、あの女は天才だったぞ。まだ十二かそこらで、育ての親の商いを支えていたんだからな。皇帝も、そういう女に惹かれたのかもな。滑らかな肌も、快楽に誘う声も、あの美しい目も、俺が汚すのが何よりも、何よりも、愉しかった! やめてと叫ぶ姿を殴りつけるのも、最高だった!」
薄くなった直毛の金髪が、笑うたびに揺れる。
げらげらと笑い続けるアーデンを見て、レンドルはただ哀れだと思った。
この男にはもう、何も残っていない。家も、地位も、この先も。
その哄笑に耐えかねたのか、エングラムが剣の柄に手をかけた。だが、その手は同じ領騎士に押さえ込まれる。
「そういえば、フィリネアリには従者が一人いてな。ずいぶんと懐いていた。その男の目の前で抱いてやるのも、なかなか乙なものだったぞ。二人で恋人ごっこでもしていたつもりだったんだろうな。それを引き裂いてやるのも、また一興だった。くっ、はは、ははは!」
喉の奥から、はっきりと反吐がこみ上げた。
顔面に、この握りこぶしを叩き込んでしまえば、どれほど楽になるのだろうか。
エングラム副団長はまともだ。あの怒りこそが、正しい人間の反応だった。
この男の醜悪さは、もう理解できる範囲を超えている。
レンドルは、その痩せた男をただ蔑みの目で見るしかなかった。
騎士団長が顎でしゃくると、ノックス大隊長とともに衛兵がアーデンの腕を掴み、部屋の外へ連れ出していく。
引きずられながらも、アーデンはなお声を張り上げた。かすれきった喉が、しゃべりすぎてさらに潰れている。
「話すことは、全て話したぞ、サンガードの公爵よ! 私との約束を違えるなよ」
開いた扉から、廊下の冷たい空気が流れ込んでくる。
この部屋に、それほどまでの熱がこもっていたことに、今さら気づかされた。
閉ざされた扉の向こうから、アーデンの下卑た笑い声はしばらく届いていたが、やがて遠ざかり、聞こえなくなった。
「アーデンの証紋は採取済みだ。契約があったのは事実だが、数日前に切れていた」
期限付きの契約、と本人も言っていた。
数日前――ちょうど、このルベリア遠征が始まる直前だ。
偶然なのか、それとも――。
「あの痩せ男は、この先どうなるのですか」
エングラムの胸が、荒く上下している。抑えようとしているのが分かった。
「証紋を交わしていてな。洗いざらい話す代わりに、男爵領の一部を渡す約束だった」
エーダー男爵領の返還――あれと繋がっていたのか。
サナロアの守ってきた領地を、あんな男に与えるのか。
騎士団長は、あの痩せ男を生かしておいて、皇妃がそれを知ったらどうなるか、考えていないのだろうか。
「だが、皇妃との相互契約はすでに切れていた。折角ルベリア王がつないだ鎖だ、外さんほうがいいだろう。あんな男に領地の統治などできようもない。いずれ、その領地は皇国に返還される。あの男には、要塞の地下牢がお似合いだと思わんか?」
あの痩せ男は、手にするはずだった土地を目にすることもなく、二度と陽の下には出られない。
男の物語は、この牢の暗闇で誰の目にも触れることなく幕を下ろす。
「当時のルベリアは、背後のサンガードまで敵に回す余裕はなかったのだろうな。周辺国とは関係が悪化していたからな。それで、皇帝陛下は、めでたく皇妃を娶った、というわけだ」
皇妃の忌まわしい生まれは、想像を絶していた。
憐れみなのか、同情なのか、言い知れぬ感情が、胸に広がった。
乱れた息を整えながら、エングラムが団長に向き直った。
「……皇国は、随分と汚れておりますな」
「皇帝陛下が暗殺された。皇妃は王女ですらなかった。ルベリアとの同盟は破棄された。そして始まったこの戦争は、今や、ただの厄介事に過ぎん。……何のための戦いなのか、儂もわからん」
息苦しいほどの空気が満ちている。窓も扉も、閉ざされている。
「……そして、もう一つある。皇妃が産んだ、人前に出ておらん殿下のことだ」
「まさか……アーデンの子だとでも? いや、成婚から二年は経った後の懐妊だったはずだ」
エングラムが首を振る。
「アーデンは金髪だ。だが、殿下は茶の癖毛だ」
「陛下も皇妃も金髪。では、一体誰の――」
茶の癖毛。その言葉を聞いた瞬間、レンドルの背筋を、名状しがたい不安が這い上がった。
「殿下は、碧眼、なのでは」
気づけば、声が漏れ出ていた。
確かめずにはいられなかったのかもしれない。
部屋にいる全員の視線が、レンドルとグリフォートに向けられる。
違うと言ってほしかった。
心のどこかで、そう願っていた。
「……見事な碧眼だよ。閃光のラクアと、同じ色だ」
世界は、美しいほどに狂っている。
フィリネアリのそばにいた従者は、その目で、きっと美しい反吐のような世界を見ていたのだろう。
レンドルは、胸の内に渦巻くやり場のない感情に押し潰されそうだった。
今はただ、無性にサナロアに会いたかった。




