第100話 嵐の朝に 5 ―― 雷の途絶えた刹那
痩せた男はアーデンといった。ルベリアの元貴族。
その男は、皇妃の出自を知る者だった。
「あの女の父親を、多額の借金に貶めたのだ。ふふ……、美しい娘だったからな。私の女にしたかったのだ。健気な女だった。自ら借金のかたになると申し出てきてな」
口元が歪んでいる。あの女とは皇妃のことだ。
この男からは、吐き気を催すような嫌悪感が伝わってくる。
騎士団長と、何か約束があるようなことを言っていた。
この男は、ルベリア王国には戻れないだろう。
なら、自由の身になるのだろうか。
それにしては貴族の装いを捨てていない。
まさか、サンガードの貴族にでもなると言うのだろうか。
あの熾烈な皇妃が、そんなことを絶対に許すはずがない。
「それから数年して、サンブラント……皇帝か。ルベリアに外遊しにきたことがあった。私の屋敷でもてなすことになった。その時、下働きをさせていたフィリネアリを、どういうわけか、皇帝が見初めたのだ」
この場にいる騎士たちが全員、静かに話に聞き入っている。
「そして、自分の女にしたいと、連れて帰るというのだ。もちろん断った。だが、ルベリアに攻め入ると脅してきたのだ」
「その噂は本当だったのか……」
エングラムの壮年の顔に深い皺が現れる。
ルベリア王国と同盟を結ぶために、皇妃を迎え入れたとしかレンドルは聞いていない。
「その日の夜に、私はルベリア王に捕まった。王国に対する反乱罪らしい。そして、黄金騎士のいるこの要塞に投獄された。もう何年も前の事か。今がいつなのかもわからない。私の家は残っているのか。まあ、どうでもいいことか。そうして、フィリネアリはルベリア王の娘として扱われることになり、皇妃となったわけだ」
信じられない話だったが、老獪な強者たちが跋扈する大人たちの世界だ、何でもありだ。
「他の男の目に触れないよう、教会に預け育ててきた。そんな噂を流したようだ。王が自分の娘だと言ったのだ。それが事実となる。例え、耳が尖っていようとな」
アーデンは、そういうと自嘲して、口を押さえた手から笑いが漏れた。
「アーデンといったな。二つ教えろ。一つは、なぜ何年も、お前は生かされているのかだ。フィリネアリの出自を知るお前を、ルベリア王が殺さなかった理由はなんだ。もう一つは、エルフの混血について、お前が知っていることを全て答えろ」
エングラムが静かに問いかける。彼の体が魔力を纏い始めた。
聞くに耐えない内容だ。
自国の皇妃がこのような扱いを受けていたなどと、目の前の見窄らしい男の口から聞かされている。
「俺とフィリネアリの間に、証紋契約があったからだ。大金をはたいて結んだ。城が一つ買えるほどの金を払い、フィリネアリとの契約を交わした」
「奴隷契約か……」
「少し違うな。簡単に奴隷契約は結べない。だから期限付きにした。自由を与える代わりに、情婦にした。結婚だって許している。契約の神はそれを許可した。人妻となっても、私が身体を求めたときに、差し出せばいい」
今は皇妃が二十を超えているはずだ。皇妃となった年齢は十六か十七だったはず。だとすれば、契約を結んだのは数年前――まだ十三歳かそこらだったというのか。レンドルはぞっとした。
レンドルは反吐が出そうになるのを堪えた。
貴族はいつもそうだ。自分の思い通りにしようと、すぐに人の尊厳を踏み躙る。
この男の話すことが真実だとしたら、皇帝陛下がフィリネアリを選んだ理由はなんだったのだろうか。
「だから、私が死ねば、フィリネアリも死ぬ。その逆もだ。レイナダの赤雷に打たれるわけだ。相互契約を結んだ。ルベリア王にはそれを話したおかげで、私は殺されなかった。利用価値があったのだろう。ずっと牢に放り込んでおいたわけだ」
エングラムが息を呑む。同時に歯軋りのような音が聞こえた。
この男を殺すことは、皇妃を殺すことと同義なのだ。
「嘘をつくな。皇妃になる前に必ず証紋の照会をする。その契約は発覚するはずだ。皇帝がそんなことを確認しないわけがない」
たしか十二歳の頃に皇帝の結婚式があった。
その後、母エルザが銀狼に殺された。
記憶は曖昧だが、確かそうだった。
「あの女の魔力紋は、採るたびに変わる体質だった」
「な、なんだそれは」
「言ったとおりだ。採るたびに魔力紋の形状が違うのだ。だから、当時の照会で契約が発覚しなかったとしても、不思議じゃない。魔力紋を一度採ってしまえば終わりだ。証紋の記録は、まっさらだろう」
そんな体質の人間がいるのか。例外があるということなのだろう。世の中には知らないことが沢山ある。
ラクアが魔力紋の照合で、皇帝を暗殺したことがわかったかと思えば、皇妃はその魔力紋自体が、変わってしまう。
魔力とはなんなのだろう。銀色に光るのはわかったが、あの昏い紅いものは、また違うのだろうか。
「二つ目の質問だったな。卿らは北方大陸アステ・ガルズのカーミオン家を知っているか?」
「……無論だ。皇国の貿易相手だからな」
「その一族の商隊が各地の有力者に接近していた中、野盗に襲われた。ある家族の娘と息子が攫われてしまったのだ」
兵学院の食堂で、ダーウィが言っていた。大貴族カーミオンと。
ラクアはカーミオンを名乗っている。大貴族の一族がラクロアンを作った。
この地を侵略するつもりなのか。ラクロアンはなんのために出来上がったのか。
「大規模な討伐隊が組まれたが、首領を捕らえることに失敗し、娘は殺され息子は行方不明。フッ、魔獣の餌だろうな」
サンガードの周辺も、野盗も山賊も多い。街道から数十分で身ぐるみを剥がされることもある。
だから商隊は護衛を雇う。冒険者や傭兵様々だ。
中には、冒険者が盗賊たちの仲間だった、なんてこともある。
お抱えの専属護衛を雇い入れ、そういった危険を回避する商会も増えたらしい。
父も個人依頼で商会の護衛についていた。色々と教えてくれた。
ブルードに目線だけ配る。
眉間に皺を寄せて真剣に聞いている風だ。
どうにも不自然に見えて仕方がない。
あの仮面の下の素顔を暴いてみたい衝動に駆られる。
「その娘は、盗賊団の首領のお気に入りだったようだ。娘は腹を膨らませていた。だが、逃げるときに殺されたんだろうな。絶命した娘の胎内から取り上げられて生き残ったのが、フィリネアリだ」
言葉を区切り、彼はさらに声を低くして続けた。
「いくら自分たちの娘の子供とは言え、夫婦が引き取るわけないだろう? 優しき知人の商会が引き取った。それがフィリネアリの育ての親、ゴド王国の商人サイアスだ。まあ、そういう優しさが商人向きではなかったということだな。サイアスも首を吊って死んだ。哀れな美しきフィリネアリよ」
まるで、その悲劇の姫の物語を語るかのような口ぶりだった。
その悲劇の役者に、この男は悪役として自身が含まれているというのに。
「まさか、その大規模討伐とは、アドラスのことか」
思い出したように、副団長が呟いた。
「そうだ。エルフの大盗賊アドラス。それが、フィリネアリの実の父親だ」
誰も口を開かなかった。エングラム副団長も、もはや言葉はないようだった。
父からアドラスの話は聞いたことがない。
いつの間にか、窓を打つ雨音が消えていた。
あれだけ轟いていた雷鳴も聞こえない。
嵐が去ったとは思えない。
この瞬間だけ、静寂が訪れたようだった。




