第95話 わたしのレンドル 3
兵士たちの興奮と疲労からくる熱気と高ぶりは、戦いの余韻だけを残して徐々に熱を冷まし、要塞を眠りに誘う夜の静けさで包まれていた。
窓の細い隙間から差し込む青白い月の光が、部屋の床に冷たい刃のような線を引いていた。
二人の間に伸びる光の線は、二つの影を遠ざけていた。
卓上には、ただ一本の燭台。
揺れる小さな橙色の炎だけが、部屋の隅々に溜まる深い闇をわずかに押し返している。
随分と夜も更けていた。レンドルとサナロアは部屋で二人きりだった。
二人の微かな呼吸音だけが、この部屋の張り詰めた空気のなかに溶けていた。
沈黙を破ったのは、サナロアだった。
「前にも話したと思うが、私は自分より強い男性を婿に迎えたいと」
彼女はそう言うと、髪をかきあげて耳に掛けた。月の光がサナロアの横顔に当たると、少し青みがかった髪と相まって、月の女神のように見えた。
「……ああ。そうだな、言っていた」
レンドルは視線をさまよわせながら、答えた。息を飲む音が部屋の静寂を破る。
「最初は男爵家を立て直すためにと思っていたが、私の正直な気持ちだとも気づいた」
サナロアは、レンドルを見つめながら話を続ける。
「レンドルが、黄金騎士を倒したから、コルタナ要塞の戦いは終わったようなものだ。それに、あの巨人族の傭兵だって倒した。誰もが英雄だと称賛するだろう。レンドルには、きっと婚姻の話が舞い込むだろうな……」
百人長にはなった。それは事実だ。だが、自分のような者が百人長でいいのだろうか、という気持ちでいっぱいだった。
「強さだけじゃない。イステアとの殴り合いのあと、城壁通路に来てくれただろ。あの時から私の心は、もうレンドルでいっぱいだ」
真っすぐな言葉だった。レンドルはそれ以上何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。
「レンドルが、銀狼への復讐が目的なのも知っている。だから、舞い込む婚姻話に応じないだろうと、期待していた。浅ましい考えだな……」
彼女にも話したことだ。銀狼への復讐を誓ったことを。
それに、まだ結婚なんて考えてもいなかった。騎士院の知り合いは婚約していたが、自分には無縁だと考えていた。
「どこの誰ともわからない女性と一生をともにするなんて、考えられないな。だから、断ると思う。それに、復讐が果たせず、そのまま戻れないことだってある」
戦う力を得るために、加護を求めた。悪夢を見なくなったとはいえ、復讐の炎を絶やすことはない。
「……すぐに未亡人になるかもしれない」
「それでもかまわない。私を愛してくれる人なら。……違う、嘘だな。正直に言えば、一人で老いていくのは寂しいと思う」
サナロアは、ゆっくりと顔を伏せる。うなだれるような仕草が、レンドルの胸に痛みを走らせる。
彼女は本当に自然で真っすぐだ。そんなところに、自分は惹かれていたのだと、あらためて実感する。
「ジュカの治療を受けながら話をしていて気がついたんだ。あの子は、きっとお前についていくと言い出すはずだ。ジュカは……レンドルのことが好きなはずだから」
「――えッ」
「彼女がレンドルを見る目は、恋する少女のようだった。それだけじゃない。何か決意のようなものも感じた。さっきレンドルは、ジュカの口元を凝視していたな。ジュカは、あの時唇に手をやっていた。……それで、お前の口に、口紅がついているわけだな」
レンドルはすぐに口元を袖で拭ったが、何もついていなかった。
違う、そもそもジュカは口紅など塗っていなかった。
「サ、サナロア!?」
サナロアが、悲しげな表情でレンドルの目の前まで歩いてくる。レンドルは思わず息を飲んだ。
「やっぱり、何かあったんだな……。レンドルはジュカを選んだのか」
「あ……。ちょっと待ってくれ。選んだとか、そういうのじゃない。彼女から部族の祝福を貰ったんだ。その儀式で唇を重ねた。俺からじゃない。いや、俺は何を言ってるんだ。やましいことなんてない。あ、抱きしめたのか俺は。だめだ――サナロアに嘘なんてつきたくないんだ」
「あはははっ。レンドルがそういう男だから、私は選んだんだ」
笑い声が止むと、サナロアの表情が少しだけ変わった。
燭台の炎が微かに揺れた。
サナロアは、ケープを止めていた胸元のフックを外した。露わになった彼女の姿に思わず見入ってしまい、ケープが床に落ちる音すら耳に入らなかった。
肩と胸元が大きく開いた薄手の長衣が、レンドルの眼に飛び込んできた。
ジュカたちと会っていた時の平服とは違った。長いケープで全く気が付かなかった。
机の上にある燭台の明かりが、彼女を背後からぼんやりと照らし、肢体の輪郭を浮かび上がらせた。
一歩、二歩と、サナロアがゆっくりと近づいてくる。レンドルはどこを見たらいいのか分からなかった。頭が真っ白だった。
部屋に差し込んでいた、青き月の光の線が、彼女の身体にあたると、その姿を一瞬だけ淡い光で包み込んだ。
思わずレンドルは後ずさりながら、両手を前に出してサナロアを止めるような仕草をした。
言葉にできない緊張がレンドルを包む。
背中に扉が当たった。
「ま、待ってくれ! 何が何だか――」
サナロアが足を止めた。
「わたしのレンドル」
さらに一歩進んできた。もう目の前だった。
彼女は両手を、レンドルの胸にそっと押し当てた。
「お前と離れたら、私から本当に何も残らなくなる。領地だっていらない。私も一緒に行く。お前の背中を守るのは私だ。私の居場所だ。残るのは、この気持ちだけ……私のすべてだ。それでもいいなら――」
サナロアがレンドルの胸に顔を埋める。
「あの時みたいに、私を抱きしめてほしい」
自分の心臓が今までにないくらい高鳴っているのが分かる。
「……レンドルの鼓動が聞こえる。私よりも、少し早いかもしれないな」
サナロアが顔を上げて、ふっと笑う。その笑みは、さっきまでの悲しげな顔とは違った。
けれど、涙が浮かんだ瞳の奥にある感情は、きっと同じなのだろう。
顔を上げたサナロアの髪が流れるように後ろに下がる。
彼女の髪が、青き月の光を吸い込んで輝く。
入り口でほのかに香ったものが、鼻腔をくすぐった。それは、サナロアの付けた香りだった。
「俺は――」
サナロアの身体が小さく震えているのがわかった。
思わずレンドルは彼女の背中に手を回した。
ジュカと重ねた唇は、最初は儀式のためだった。
でも、強くあろうとする生き方に惹かれていたのは事実だった。
彼女が悲しみの底にいたから、抱きしめた。
「私のことが、好きなら……あなたから、口づけをしてほしい」
レンドルの喉が鳴った。
「……そうじゃないなら、その扉から、出て行ってくれてかまわない」
その声は、か細く今にも消え入りそうだった。
扉はレンドルの真後ろにある。
この扉から出て行くには、サナロアを押しのけるしかない。そんなことが――。
「俺は……」
サナロアは目をつむらず、レンドルを真っ直ぐに見つめている。
その瞳には、今にも溢れそうなほど、涙が浮かんでいた。
彼女の瞳は、美しい。長いまつ毛が濡れている。
この戦いは、ずっとサナロアが側にいた。
彼女と軽口を言い合い、時には怒鳴られた。
黄金騎士との戦いのときには、必死で止めようとしてくれた。
城壁通路で、屍人となった巨人族の傭兵を倒したあと、彼女からの好意に気づいた。
そして、同時に自分の気持ちにも気がついたはずだった。
レンドルとサナロアの瞳が、ゆっくりと近づいていく。
黄金騎士に傷つけられたサナロアを見たときに、大切なものを奪われる恐怖を感じた。
獣人族の男にサナロアが怪我をさせられたと聞いたとき、全身が怒りに震えた。
レイナダの赤雷に打たれたときに、サナロアの泣き顔が頭をよぎった。
レンドルは最初から答えを持っていた。
サナロアには嘘をつきたくなかった。
今の自分には、そうする理由もなかった。
それが、どんな未来になるのかも、想像すらつかなかった。
だけど、それでもいいと思った。
サナロアの背中に回した手を、レンドルは優しく引き寄せた。その手に彼女の温度が伝わる。
「あっ」
小さく彼女の唇から吐息が漏れる。それが唇に触れた。
サナロアの唇には紅が塗られていた。
「……ごめん、サナロア。泣かせてばかりで」
今度は、レンドルの方から、唇を重ねた。
小窓から差し込んでいた青き月の光は、雲に隠れた。
部屋には燭台の炎だけが揺れている。
二つの影が一つになるのを、優しく照らしながら。




